よきにはからえ

おもしろきこともなき世をおもしろく、住みなすものは心なりけり

CHAT GPTは人を虚無化してゾンビ化させる

最近、何かと巷を騒がせているCHAT GPT。僕も実際に使ったことはないが、あらゆる媒体で、その革新性や実用性について熱弁されている。書店では、CHAT GPTの活用メソッドを体系化した書籍が、新刊コーナーを群雄割拠している。

たしかに我々の生活の根底を変えるポテンシャルを秘めた、すばらしい発明だ。特に恐ろしいのは、その汎用性だと思う。ウィルスのように他の技術と結びついては、周辺機器に人工知能を実装させる。この技術によって、僕らの生活は近い将来、飛躍的に便利で効率的になるだろう。

だがCHAT GPTの出現によって、人類が一歩幸せに近づいたかと問われると、僕は明確にNOと突きつけたい。CHAT GPTは、いつか人間唯一の不可侵領域であった「考える」機能を脅かす存在になると思う。「考える」必要性を失った人間は、なにをすれば良いか路頭に迷い、ゾンビのように虚無的な存在に近づくだろう。

これまで、幾多の進歩によって、人間の営みは機械に取って代わられてきたが、「考える」という聖域だけは護られてきた。その背景には、人間の脳が複雑怪奇で曖昧模糊すぎて再現できないという技術的問題があったのだろう。でもそれゆえに、僕らは考える権利を独占的に自由自在に享受することができた。特に表現という文脈においては、アウトプットが歪で癖の強いものであっても、人間味や個性として受け入れられてきた。それは、人が天然の脳みそを使った温もりや、その積み上げた努力が、文章から垣間見れることで価値があった。

でもCHAT GPTの出現は、その前提をぶち壊した。機械によって、人間味ある文章を人工的に作れてしまえば、もはやらそこに人間味は存在しない。一瞬でそれを再現できてしまうなら、そこに価値がなくなる。今までコツコツ書き上げた作品を、マジックのように一瞬で生成できるなら、誰がそこに時間をかけるだろう。そして、人間がこれまで、いかに良い文章を作るかに投じられてきた努力は、いかにCHAT GPTに良質なインプットを与えるかという方向に変わってくる。ほんとにそれでいいのか?少なくとも、僕は将来、自分の書く意味が失われることに恐怖を抱いている。

話は少し変わるが、少し前に「暇と退屈の倫理学」という本を読んだ。賢者の書のように難解であったが、どうやら退屈という感情は現代人特有の概念であるらしい。はるか昔、まだ見渡す限りの大草原が広がっていた頃、移住民族だった我々は、暇や退屈を感じる余地がなかった。毎日、食べ物を探して、また敵から身を守り、定期的に場所を変えないといけないからだ。人間の幸福度を一律で定義することはできないが、少なくとも僕の物差しでは、その頃の生活のほうが幸せだったのではないかと思う。

ちなみに僕はマイクラでその時代を追体験している。そして、目を瞑ると、マイクラの幻覚が見えてくるくらい中毒症状に陥っている。ここまで、夢中になれるのは、その頃の、なにもないが空虚ではない生活に無意識のうちに憧れてしまっているのかもしれない。

マイクラの無限の可能性と闇の深さについて

マインクラフトというゲームにハマってるいる。俗にいうマイクラ。ハマってるというより、嵌っていると描くほうが、より深刻な心境が正確に伝わるかもしれない。つまり、「新しい趣味を見つけてハッピー」よりは「沼に嵌りました、抜だれか助けてください」の方が実態に近い。

学生や独身社会人にとっては「寝る間を惜しんでゲームをしている」という状況はまぁ許容範囲だ。だが二児の父親が陥るのはワケが違う。前者の本質は趣味で、後者は麻薬だ。頭の中では、睡眠時間を削る代償が大きいことはよく理解している。でも本能に近い欲求を制御することができず、僕は漆黒のゲーム機に手を伸ばす。そして、空白の時間を経て、激しい後悔と絶望とともに現実に戻る。最近はこれの繰り返しだ。

当初は、息子と一緒に軽い気持ちで始めたマイクラ。もともとゲーマーであった僕は、尊い青春を犠牲にすることで、ゲームの闇の深さを、嫌というほどわかっていた。だから、Switchでゼルダドラクエなどの超そそるソフトが発売されても、ずっと見て見ぬふりをし続けてきた。だがマイクラは、息子と遊ぶという大義名分を隠れ蓑にして、巧妙に僕の心の中に入り込んできた。そして、僕自身も油断してたのだろう。初代マリオのような安っぽいドット絵に無限の可能性が溜まっているとは露ほども思わない。

ついでに言い訳させてもらうと、マイクラのサバイバルモードはむしろ大人のほうがささると思う。その妙味は、人類の進化の過程を擬似体験できるところにあるといっても過言ではない。何もない平原から始まり、材料を集め、道具を作って、生活を豊かにしていく。あくまで現実世界の模倣なので、集める材料も木材、食べ物、鉱石など現実に即している。ドラマチックなストーリーも存在しないし、ラスボスも存在しない。このリアリティはVRとはまた異なる没入感をプレイヤーに与えてくれる。

熱弁できるくらい没頭できるコンテンツに出会ったことを幸ととるべきか、不幸ととるべきか。やっている時は、時間を忘れるくらい没入できるが、終わった後は地獄である。理性というのは肝心な時に、役に立たない。普段は、失敗したらどうする?と無駄に煽って、ブレーキを掛けてくるくせに、本当に働いて欲しい時には、なにも機能しない。

このコントロールできない無力感は、もしかしたら乙女の恋心と似ているのかもしれないとふと思ってしまった。ゲームによって失われた青春をゲームで回収できるなら言うことは何もない。

コロナ中の暇つぶし

コロナ隔離中は暇に忙殺されていたので、せめて有効に潰してやろうと思い、前々から読みたいと思ってた宇宙兄弟を全43巻分、メルカリで大人買いしてきた。

これまで、ずっとkindle派であったのだが、売れることを考えると紙も悪くない。特に中古本に関しては、すでに経年劣化が買取時の価値に反映されてるので、売る時の値段もさほど変わらない。実質の負担はメルカリ手数料と送料のみで、心ゆくままに好きな漫画を貪れる。正直、漫喫行くよりもコスパ良いだろう。今回、メルカリはじめて使ったが、今更ながら、この仕組みを作った創設者には敬意を払いたくなる。

そして本題に入ると、宇宙兄弟めちゃくちゃおもしろかった。スラムダンクドラゴンボールみたいに痺れる展開が待ち受けてる感じでなく、じわじわと累積していく感じのおもしろさである。漫画には珍しく、最初から最後まで中弛みせずに、読み進められた。

こんなにも面白いと感じた、その理由を分析してみたところ、ストーリー展開が現実の仕事に近いからだと思う。この物語は、ムッタ(主人公)が、その魅力的な人間性や機転の効いた振る舞いで、周りの人から認められながら、一歩ずつ夢に近づいていく話である。宇宙飛行士の仕事は夢とロマンに満ちている、一方でサラリーマンは現実という名の地面を這いつくばる存在、両者には文字通り天と地ほどの差がある。だが舞台は違えど、人間関係を円滑に進めながら、仕事を進めるという基本は同じではないだろうか。宇宙兄弟は、その華やかさの裏にある泥臭いプロセスの描写が絶妙であった。

特に登場人物の心情描写はとても凝っていたと思う。ひとりひとり丁寧に回想シーンとか入れたりして、彼らの個性やバックグラウンドがリアリテイをもって引き出されている。従って、これは主人公ムッタの物語ではあるものの、彼を取り巻く人々の想いと葛藤が交錯し合いながら同時並行で物語が進んでいく。とても共感を呼べるし、趣深い内容であった。

本でも漫画でも、良書だと思えるものは読んだ後に、自分の世界が少しだけ広がった感じがする。具体的には、何が変わったのか、言葉にできない。もしかしたら、ただ余韻に浸ってるだけで、気のせいかもしれない。だが少なくとも、宇宙兄弟を読んで、宇宙に大して身近に感じれるようになった。ロケットの仕組みや月に関する知識も多少は増えたし、JAXAの記事にも、自然とアンテナが立つようになった。こういう書籍との巡り合わせは、ラッキーだと思ってる。

ひとつ問題があるとすれば、読み終わって売る予定だったのに、キープしときたいという感情が芽生えてきたことだ。サーキュラーエコノミーの波に乗っかろうと思ってたが、人間の所有欲の存在を忘れていた。

隔離生活中に考えてること

コロナ陽性判定を受けてから、隔離生活が3日目に突入した。僕の今の生活は一言でいえば、家庭内囚人である。英語で言えばJAIL at HOME。寝室と書斎とトイレを往復するだけの生活。ご飯の時間になれば、嫁が「おい、飯の時間だ」とでも言わんばかりの無精な顔つきでプラ容器に入れたご飯を配膳してくる。

子供達との絡みはほとんどない。彼らがきゃっきゃっと楽しそうに遊んでる声は鮮明に聞こえてくるものの、その空間に入ることは許されない。前回の日記では、家事が免除されてラッキーと書いたが、やはり一刻も早くこの境地から解放されたいと切に願う。

そして、うちの隔離政策は徹底している。「なるべく」や「できる限り」と言った曖昧な努力義務で終わらせない。あらゆる接触機会を合理的に徹底的に排除する。まるで鉄血政策で名高いビスマルクのようだ。「令和の女ビスマルク」それがうちの嫁だ。普段なら、穏健バランス派の僕は嫁のやり方に納得できず「それはやりすぎだ。もう少しハッピーな方法を考えよう」と言うだろう。そしてケンカになる。だが今回ばかりは、僕と嫁の利害は完全に一致して、手を取り合っているのだ。

それはなぜか?僕は激しく怒っているからだ。この1週間のあらゆる自由を僕から奪ったウィルスに。子供達と遊ぶことも許されない、外にも出歩けない。ちょうど今週末には、楽しみにしてた友人達との集い(飲み会)もあった。それも急遽キャンセルだ。絶対に許せない…

だが自我も感情もないウィルスに怒りをぶつけても虚しいだけである。そこで、僕は健全に怒りを発散させるためのシナリオを考えた。愚かにも僕の体内に入ってきたウィルス個体に人格があると仮定して、こいつをジョン(仮名)と呼ぶことにする。

ある日、ジョンは僕の体内に入ってきた。無論、目的は子孫繁栄のためである。ジョンは順調に分裂を繰り返す。どんどん繰り返す。僕の体内に無数のジョンの分身が複製される。だが異変を感じた僕の体は奴らを追い出すために熱を発生させる。ジョン一家は驚いて、うちから逃げ出す。そして、子供達に向かってこう叫ぶ「みんな散り散りに逃げるんだ!俺たちのうちの誰かが、新しい宿主に接触できたら、生き延びることができる!」

だけど、僕はそれを絶対に許さない。僕は行動範囲を可能な限り制限することで、ジョンの分身たちの付着範囲をコントロールする。そして、そこに宿主はこない。宿り主がいなければ、奴らは数日で死滅する。ジョン一族の系譜はそこで完全に途切れる。復讐完了である。

日常の怒りの大半は強い思い込みなので、それを沈めるのもまた強い思い込みであっていいと思う。

久しぶりに風邪を引いてみた

久しぶりに風邪を引いた。ものすごい高熱で頭がぐわんぐんして悪寒が止まらなかったので、病院に行くと、案の定、コロナ陽性判定を言い渡された。解熱剤やら生薬やら一通り飲むと、容態は落ち着いて、発症二日目には仕事再開できるくらいまでは回復した。

とはいえ、薬の影響で頭がほわんほわんして、全く集中できなかったので、再開が早すぎたと少し後悔している。これもリモートワークの弊害のひとつだろう。5年前の世の中であれば感染リスクを考慮して、検討の余地なく休むことができた。でもリモートワークの場合、体調さえ良ければ、物理的には仕事ができてしまう。休むかどうかは本人の良心に委ねられている。現在、大口顧客への出向中の身なので、性善説を貫き通すしか道はなかった。。

これまでの状況を要約すると、コロナで微妙にしんどいが、仕事は休めなくて、外出もできない。いいことがひとつもなくて、悲観的になっていたのだが、ひとつだけ朗報があった。それは家事からの解放である。嫁からは、歩くウィルス核と思われているので、家内では徹底的な隔離政策が敷かれることになった。よって、朝の準備から、保育園の送迎、夜の片付け等の雑務の全てが期間限定で免除された。これまでどれだけ仕事が忙しくても、夫の家事免除を自ら"公認"することは決してなかった。それ故に、今のこの状況は歴史的瞬間とも言えよう。

そんなわけで、家事がなくなった分、ぽっかりとした自由時間が捻出された。夜の時間が丸々自由にできるのは、まるで独身時代に戻ったようだ。これといってやることはないのだが、この時間を持て余してる感じ自体が、久しぶりすぎて、これはこれでいいと思う。時間に気にすることなく時間を使える状態が、一番贅沢な時間の使い方なのだろう。

とはいえ、やはり病に伏していると、自然と気が滅入ってくる。子供達と遊ぶことは許されないし、外の世界との接触もシャットアウトされる。予定も全てキャンセルした。自分を置いて世界が進んでるような気がして、謎の焦燥感に駆られる。たしかに好きなだけ寝れるし、余暇の時間も取れる。でも、素直にそれを享受できないのは、対価を支払っていない感じがするからだろう。無償で与えられる快楽はなんとなく気持ち悪いのだ。

風邪のダメージが心身ともに思いの外大きいので、一刻も早く回復して、もとの馬車馬のような生活に戻りたい。

 

 

執筆の偶然性を大事にしたい

前回に引き続き、ブログに関する記事である。昨年から1年間ブログをやってきて、それなりに執筆に関する知見も溜まってきた。これまで、ひたすら書くことを目標に突き進んできたが、今年は視座を少しだけ上げてみたい。

具体的には、ブログ活動における偶然性を尊重したい。執筆中に出会う一期一会の表現や、執筆当初湧き上がった感情の鮮度、そういう刹那的なものに身を委ねられたらと思う。漠然と脳裏に浮かぶイメージを、手品のようにぱっと、しかも精度高く言語化することができたら、僕にとってそれは幸せの一形態だと思う。

僕は執筆の際には、石橋を叩くように、コツコツと進めていく。満足のいく表現が見つからなかったら、その場で沈思黙考するし、投稿までに何度も見直し書き直しが行われる。当初はいいと思っていた表現も、時間が経つと、なんか違うなと思い始め、書き直されることも往々にしてある。

だけど、そうやって、丹念に時間をかけて書き上げられた記事が、必ずしも良くなるとは限らない。むしろ、時間をかけるほど、凡庸なものに収束する傾向多いように思える。推敲の結果、全体としては、よく纏まっていて、読みやすくはなるものの、個性は失われているのではないかと感じる。

僕はその理由が、時の経過に伴い、記事の核となる熱量が失われたためだと考える。改めて思うのは、思考や感情というのは信用ならない。その時、確信をもってYesと言い切っても、翌日にはやっぱNoで、簡単に手の平を返してくるやつらだ。なので、彼らの気が変わらぬうちに執筆を済ましてしまうのが、賢明だと思うわけだ。

とは言え、実行するのは中々難しい。僕の場合、執筆の前半までは滞りなくタイピングが進むものの、半分くらいで山場を迎える。そこで、言葉の連鎖反応は失われ、思考が淀み始める。残りは苦し紛れのパッチワークで継ぎ足しながら、なんとか投稿まで押し込むのが毎回のパターンである。

そこに足りないのはなんだろう。語彙力や言語化能力などのテクニカルな部分が未熟なのか、それとも題目への熱量が足りないのか。そもそも、両者を完全に二分できるとも思えないので、結局のところ、ひたすら書き続けるしかない、これに尽きると思う。

ただ心に留めておきたいのは、ひとつひとつの文章に100%の表現力を求めるのでなく、多少曖昧で意味が通らない時があっても、それもブログの妙味として残す選択肢もあるということだ。

復活の呪文

自分で言うのもなんだが、久々の更新である。実際の空白期間は1ヶ月くらいであり、全然大したことない。それでも、ザオリクされた感覚に陥っているのは、週1で執筆するルーティンをこれまで1年間継続してきたからだろう。一時的であれ、連続的に続いてきた習慣が、断ち切れたのは、ある種の"死"を意味する。

まず暫く時間が空いた理由は、シンプルにリアルが忙しかったからである。それは書く時間がなかったという意味もあるし、もうひとつ、ブログのモチベが下がっていたという意味合いもある。どうやら、外の世界で会話できる環境にあると、自己表現欲求はそこで完結してしまうらしい。表現欲求を満たすという文脈において、会話とブログは互換性があることに気づいた。

当初ブログを始めたきっかけは自分の発信と発散の場を作るためであった。当時はリモートワーク続きで、他人と会話する機会がなく、それはもう精神的暗黒時代といっても過言ではない。出口のない欲求不満の中で、想いの捌け口として見出したのがブログである。表現することに飢えていた僕は、雀の涙程度の父親の自由時間を惜しみなくブログに注ぐことができた。

だが最近になって、労働環境が劇的に変わった。出社も増え、コミュニケーションも活発化してきた。そうなると、ブログを書く原動力は徐々に失われた。これまで、ブログを書いていた時間は、動画や読書などのリラックス時間に置き換えられた。

そんな風前の灯状態の中、また記事を書いてるのは、そこに新たな目的を見出したからだ。というのも、ネタを考えるプロセス自体が、思考を深化させる型を与えてくれてると思った。

日常生活において、自分自身の感情や想いに目を向ける機会はない、絶望的にない。絶え間なく、降ってくるタスクを処理する日々で、オペレーションに寄与しない感情や情緒やらに目を向けるのは、それが必要だとわかっていても、不可能と言えよう。

そこで、半強制的に自問自答を引き起こすのが、ブログのネタ探しである。"最近どう?"という内面への問いかけが呼水となり、会社や父親としての立場は関係なく、ひとりの人間としての自分と向き合うことが可能となる。この等身大の自分との禅問答的キャッチボールは、忙殺の日々を送ってる大人にとって、貴重なのだと思う。

過去の日記を見返してみても、クオリティはさておき、その時々の些細な悩みから、大きな悩みまで、ちゃんと言語化されている。きっと、漫然と過ごしていただけでは、これらの感情の機微に気付くことはなく、過去は有象無象の集合体として処理されていたことだろう。

なので、たとえリアルが充実していても、ブログは継続した方が良いと改めて思った。復活の呪文としては長いなと思ったが、よく考えたら、オリジナルのやつも相当長かった。