今うちにあるものの中で、際立って哀愁を放っているやつがいる。
そいつの名はロイドのゴールデン・ウルトラドラゴン。レゴニンジャゴーシリーズの屈指の大物だ(たぶん)。
黄金色に輝やく3頭の頭を持つドラゴン。ゴジラに出てくるメカキングギドラのレゴ版をイメージしてもらえるとわかりやすい。
名前から想像できる通り、子供受けしそうな造形で、我が家のおもちゃラインナップの中でも、間違いなくイケてる部類に入る。トイストーリーであれば、当初のバズライトイヤー的存在感を放っている。
だか現実は虚しくも、彼は日の当たらない隅に追いやられ、哀しげな表情で毎日虚空(天井)を仰いでいる。なぜなら、誕生日に開封され組み立てられて以降一度も遊ばれてないからだ。
トイストーリー的世界観で言えば、おもちゃにとってのステータスは子供に遊んでもらってなんぼ。こんな組み立てられたまま放置される人生を彼は想像すらしてなかったろう。
だが、うち以外でも、同様の現象が起きてると推量する次第だ。
問題の本質は、彼がレゴとフィギュアという相慣れない二面性を持ってしまっているところにある。
レゴの価値は、破壊と再生。子供が新世界の神となって、自分の思うがままに、その世界観をブロックで再現するところに醍醐味がある。一方で、フィギュアは、完成された造形であることに意味がある。だがこの二つは共存できない。理由は、至ってシンプル。
かっこいいから他のレゴのように壊したくない。それか、戦わせたいけど、壊れそうだから置いてこう=放置 という方程式が成り立つ。
残念ながら、子供にはまだもったいないという概念を持ち合わせていない。
折角だから、時々遊ぼうとか打算的な考えは一切なく、徹底的に放置。選択に迷いがない。そして、純粋に冷徹だ。
ゴールデンウルトラドラゴンは憂いている。
自分がレゴに生まれてきたことを。
子が親を選べないのと同じように、おもちゃもメーカーを選べない。
だけど、まだ希望はある。
嫁がずっとメルカリに出す期を伺っている。ハイエナのような目で時々舌舐めずりしながら、彼を見ていることを、俺は知っている。
そうすれば、お前もきっと人生やり直せるさ