よきにはからえ

おもしろきこともなき世をおもしろく、住みなすものは心なりけり

虚ろな男

ひとりの男がいた。

男は子供の時から、心に無を飼い慣らしていた。

おもちゃを欲しいと思わなかったし、遊びたいという欲望もなかった。テレビやスポーツなどのエンターテイメントにも興味を抱かなかった。同年代の子供が健全に兼ね備えている欲望や好奇心という感情が彼にはごっそりと欠けていた。

そんな彼が最初に、情熱を注げるようになったのはゲームであった。彼がそこに面白みを感じたのは、クリアという明確な目的を与えてくれたからだ。例え、クリア後に得られるものが空虚な自己満足であっても、そんなことはどうでもよかった。目的に向かうプロセスが、彼にとって重要であった。彼は狂ったようにゲームにのめり込んだ。通学途中、授業中、帰宅後も目前のゲームをどうクリアするか、ひたすら考えていた。それが彼の日課であり、使命であり、人生の全てであった。

そんな、うだつの上がらない毎日を送っている息子を見かねて、親は塾に通わせた。最初は嫌がっていたが、程なくして、彼は勉強を自分のサイクルに取り込んだ。勉強とは、修行のようなつらいものではなく、知識を吸収して吐き出すだけの単純作業に近かった。彼は、テストの結果やプレッシャーに一喜一憂せず、受験という目的に向かって、黙々と機械的に勉強をこなした。そして彼は高校受験で志望校に受かった。

ゲームしかしてこなかった彼にとって、受験合格は生まれて初めての社会的成功体験であった。親や周囲の人からは褒め称えられ、彼も生まれて初めて自分に自信を持つことができた。そして、彼の心の中に、ひとつの人生訓が刻まれた。

「やるべきことをにやってると、人生うまくいく」

その後の人生においても、その法則は概ね彼を裏切らなかった。大学受験や期末試験も、然るべきタイミングで、然るべき勉強をすれば、結果が出た。社会に出てからも、テストが上司の指示に変わっただけで、本質は同じであった。彼は忠実に上司の指示に従い、期限内に正確な成果物を出した。そして何より、個人的な意見や感情を挟まなかった。もとより、彼は無関心であるため、黙って従うことは苦ではなかった。結果、上司からは好評価であった。このようにして、若いながら、小さい成功体験を積み上げ、自分の信念をより強固で堅牢な土台として固めていった。

だが時がたち、彼の立場は作業者から監督者に変わった。新しい立場で求められるのは主体性であった。人の指示を待つのではなく、自ら考え動くことを求められ、人の意見に迎合するのではなく、個性を出すことを求められた。

彼は大変困った。目的やルールがない中で、どう動けばよいかさっぱりわからなかった。結果、よく思考停止に陥った。自分でも驚くほど、何もアイデアが湧き出てこなかった。きっとチャットGPTのほうが、人間らしいアイデアを出してくるだろうと自嘲したい気持ちになった。

思い返すと、これまで創造する経験をなにもしてこなかった。ずっと外部の判断基準を利用して、人生を歩んできたのだ。自分の価値観で勝負することから逃げてきた。これまで積み上げたと思っていたものが、ひどく空虚で紛い物のように思えた。そして、メッキが剥がれ落ちた後に残るのは、少年時代に感じていた無の心である。そこで、彼は新しく人生訓を得た。

「やりたいことをやっていると、人生うまくいく」

だがどうやってその境地にたどり着けばよいのか、彼にはわからなかった。