よきにはからえ

おもしろきこともなき世をおもしろく、住みなすものは心なりけり

勉強の代償

息子が今年から小学校に入ったので、将来的な勉強方針について考える機会が増えた。その一環で、令和のお受験事情をアップデートしてるのだが、最近の子はほんとによく勉強してるなと素直に感心してしまう。

昨今の家庭では、小一から公文とか学研とか勉強系の習い事をしてる子が大変多く、それが当たり前のようになっている。ちなみに住んでる場所は、決して都内の一等地などではない。埼玉の平凡的な地域である。にも関わらずだ。

そして、塾に入れる時期も昔と比べると年々早くなっているらしい。受験勉強が難しくなってるのか、親の受験意識がインフレしてるのか、理由はさておき、とにかく小学校の低学年から、受験戦争の火蓋が切られる。子供達は頭の良さだけでなく、長期戦を戦い抜く持久力も求められる。

ちなみに、僕が小さい時は、勉強してた記憶はほとんどない。ゲーム三昧で、うだつの上がらない毎日だった。頭の中は、ポケモンドラクエのことしかない、しょーもない学生であった。だがそれでも社会的に許されてた節はある。勉強に勤しんでたのは、一部のエリートのみだったので、勉強しなくても、それが仇となり悪目立ちすることはなかった。

当時と比べると、今の子供達は本当に勤勉だ。サラリーマンの親も顔負けである。共働きなので、毎日朝から晩まで学校で過ごし、隙間時間で習い事もしっかりこなしている。それに不満を垂れないのは、周りも同じような環境であるからだろう。

だが、毎日勉強してる様子を見ると、不安に感じる日もある。このまま、勉強一辺倒で突き進むのは、今の時代、むしろリスキーではないかと心のどこかで警鐘が鳴っている。

僕自身が中学以降、受験勉強に全精力を注いだ身としてひとつ言えることは、勉強やりすぎると正解がない問題に対処できなくなるということだ。正しいか間違ってるか、良いか悪いか、善か悪かという二項対立概念で物事を捉える癖みたいなものが、知らずうちに身に付いてしまう。そして、それは、他人が決めた尺度でしか価値を判断できなくなることを意味する。その一方で、自分の物差しは、どんどん劣化して、腐り果てていくのだ。

ほんの10年くらい前まではそれでよかったのかもしれない。幸せを定義するのは、学歴とか地位とか権力とか、社会が勝手に決められるものであった。そこに本人の意志が介入する余地はない。だから、内面が空虚であっても、擬似的に幸せを感じることは可能であった。

だが、時代は変わった。大企業に入ることはもはや絶対解ではなくなった。転職するのも、副業するのも自由だし、プライベートのために仕事を犠牲にするのも、ひとつの生き方だ。それを決めるのは自分自身であり、他の誰でもない。そこに求められるのは、正解なき道を進むのに、羅針盤となる確固たる価値観である。それは決して勉強だけしてれば、育まれるものではない。

勉強は、あくまで自分で考えるきっかけとなる知識や考え方であって、それ自体が目的化されるものではない。親と同じ轍を踏まないように、息子には、人生一度の学生生活、思う存分謳歌して欲しいものである。