よきにはからえ

おもしろきこともなき世をおもしろく、住みなすものは心なりけり

ランニングをして古代ギリシャに想いを馳せる

一日中リモートワークをしてると、定時過ぎ当たりから娑婆の空気を吸いたいと、血が騒ぎ出す。犬の散歩と一緒で、外の空気を吸いたいという動物的本能に抗う方はできない。そんなわけで、一日の仕事、家事を終えた後、ランニングをすることにした。妻の鋭い視線を背中に感じながら、玄関に向かった。

外に出ると、いい塩梅の風が吹いてて、ランニングに最適な環境であった。ジムで金払ってランニングする意義を全否定できるくらいの圧倒的な解放感である。僕は無料でこの環境を享受できる、謎のお得感を感じながら、軽快なリズムで走り出した。

ふと空を見上げると、星がポツポツと見えた。雲ひとつない澄んだ夜空であるにも関わらず、肉眼で確認できるものは、数えられる程度しかない閑散とした空模様であった。少数精鋭の星達は、きっと夏の大三角だ。星座の知識はとうの昔に失われていたが、消去法的に推測することができた。

小学校の時は、テストに出るからという理由で、記号のように星座名を覚えていて、その背景や理由については、考えが及ばなかった。だが、20年の歳月を経て、星座の概念を作った古代ギリシャ人の想像力は凄まじいなと、改めて思う。

というのも、星座の名前とその形はほとんど一致していない。たまに子供達と行くプラネタリウムに行くと、あの星と星を繋げると、はい、射手座になりますね〜♩みたいな解説が入るが、全然そうはならない。自明の事実を語るような口調で言われても、星がカニやサソリには見えないし、ましてや、美女に見える悟りの境地には至れる気がしない。

だから、星座の概念を作った古代ギリシャ人の想像力には、素直に感服する。まだ言葉の概念が少ない当時において、事象と概念の差を補っていたのが、想像力だったのだろう。当時、ひげもじゃの人々が、星を記憶する必要性に迫られて、創造力を駆使しながら、犬とかサソリの名前を便宜的につけてるシーンが脳裏に浮かぶ。そう考えると、星座の名前と形の間に介在する違和感にも、当時の想像力の結晶みたいなものが垣間見れて深淵深く思えてくる。

最近、想像力というワードを色んなところで目にする機会が多い。欲しい情報が簡単に手に入る時代において、既知の情報には価値がなく、想像力を駆使して個性を発揮する力を育むべきという機運は高まってるように思える。

今は便利な世の中になったと思うが、それで幸福度が上がったかと言われると、決してそうとは言い切れない。妄想を膨らませながら、星を女の子に見立てて名前をつけてた時代の方が、むしろ幸せなのではないかと愚行する次第である。