よきにはからえ

おもしろきこともなき世をおもしろく、住みなすものは心なりけり

インドネシアで発電所を作っていた時の話

5年くらい前まで、インドネシア発電所を作っていた。

当時、僕はプラントエンジニアリングの会社に所属していた。海外の田舎で現地スタッフを使いながら、化学プラントや発電所を作るという仕事である。海外駐在というキラキラしたイメージからは程遠い、大変泥臭い職種である。

当時新卒3年目であった僕は、現場でのOJTという大義名分のもと、目下炎上中のインドネシアの巨大発電所プロジェクトに放り込まれた。これから着工予定なのだが、スケジュールは既に遅れており、おまけに住民や環境団体の反対運動も起きているという、呪われし案件だ。帰任時期は知らされず、プロジェクトが落ち着くまでいて欲しいとのこと。まさに片道切符の島流しである。

まず心が折れたのは現場への移動だ。首都ジャカルタから国内線を乗り継いで地方都市に降り立ち、さらに車で3時間移動したところに現場は位置し、日本からの移動だけで1.5日要する。気の遠くなるような移動時間と距離感に、もうこのまま日本に帰れないのではないかと当初は本気で思った。

居住する街には、スーパーもコンビニもあり、一応街としての最低限の機能は待ち合わせいた。だが外人向けのファーストフード店や洋食店はほとんど見つからない。当然だが、日本食屋が存在している形跡は微塵もない。

この陸の孤島に赴任してきて、最初に味わった絶望が食事である。インドネシア名物のナシゴレンやミーゴレンはあるっちゃある。ただ油が悪すぎるのか、石油のような味がして、食べた後の胃もたれ感が半端ない。バリ島とか旅行先で食べるそれとは、似て非なるもので、すぐに胃が受け付けなくなった。

なので、主な兵糧は日本から持参した大量のレトルト食品である。カレー、パスタ、みそ汁、牛丼等々。トランクの半分以上は、レトルト食品と言っても過言ではない。幸い、半年に1回は日本に帰れるので、計画的にスケジュールを組めば、駐在期間中、食い繋ぐことはできた。

ちなみに、週末のご褒美はマクドナルドだ。空港のある街まで3時間かけて戻ると、マクドナルドにありつける。これがまた、砂漠で飲む水のように、格別においしい。世界中のどの地域でも一定の品質を担保できるファーストフード店の企業努力に、畏敬の念を讃えたい。

そして、当時の一番のストレス要因は、ゆったりと流れる時間感覚だ。常夏という気候のせいか人、物、情報の全ての動きが、やたらとスローモーションに感じる。工事がスケジュール通りに進むことはまずないし、そもそも、建設資材も予定日に来ないから、工事を始められないというケースも日常茶飯事だ。

最初から既にスケジュールが遅れてるので、なんとか効率的に進めようと、彼らのケツを叩くのだが、全く手応えを感じられない。明日には来るから大丈夫!という、のれんに腕押ししたような答えしか返ってこなくて、毎日、絶望した。

時間を守り、約束を守り、ルールを守る。日本ではできて当然と思われることが、ここでは全く通用しないのだ。カッチリとした価値観に慣れ親しみすぎた日本人にとって、全てが計画通りに進まない状況は非常に耐え難い。一度、電車が予定通り来なかったせいで、飛行機に乗り遅れて、日本に帰れなかったこともある。

また命に関わるハプニングも何度か経験した。一度、発電所建設への反対運動で、暴徒と化した周辺住民が、守衛のバリケードを突破して、工事敷地内になだれ込んできたことがある。ボロ雑巾のような服を着たおっちゃん達が、バイオハザードのように殴り込みにきたのだ。

背景としては、発電所建設のために、政府の力を借りて、半端強引に土地買収を進めたのだが、一部の住民から反感を買っていた。その敵対心に、環境団体が火をつけて、暴動を起こしたらしい。まるで、陰謀が渦巻くドラマのような展開である。

バリケードが突破されたという知らせを受け、日本人は狙われてるから、全員事務所の奥に隠れることになった。万が一のケースに備えて、武器となるような資材まで探したりした。

結局、味方のローカルスタッフが事務所前まで来た彼らを宥めてくれて、事なきを得た。本件のようなプリミティブな地域では、現地スタッフとの信頼関係が、命綱になることを改めて学んだ。

このように、毎日のように、色々な問題が勃発して、火消しに追われながらも、プロジェクトを前に進めるために、走り回る日がずっと続いた。だかその努力も虚しく、プロジェクトの状況は悪化するばかりで、会社は大きな赤字を垂れ流し続けた。当時関わっていた多くの若手は、会社の行末を案じて、退職して、みんな散り散りになった。

無論、自分もその1人だ。2年半の駐在期間を経て、志半ばではあるものの、現場を去ることにした。他の現地駐在員やローカルスタッフからは、温かく見送ってもらい、帰りの車の中では、色々なこれまでの苦労が走馬灯のように駆け巡り、自然と涙が止まらなかった。

この駐在期間で何か得られたものがあるかどうかは正直わからない。帰ってきてから一定期間は、出所後の囚人のように、新鮮な娑婆を満喫したが、気がついたら、いつもの生活に自然と戻っていた。

だが時々、街でコンクリートを打設しているところを見かけると、インドネシアの片田舎に漠然と広がる赤土の大地を思い出すのだ。