よきにはからえ

おもしろきこともなき世をおもしろく、住みなすものは心なりけり

月が示唆してくれたもの

今週も月曜を乗り切った。

週の最初に必ず訪れる精神的難局。朝一で布団から出たくない自分と戦い、機嫌がどん底の息子娘と戦い、執拗に追いかけてくる時間と戦う。

それは、日常という名のコロシアムだ。そこで、僕は現代を生きる剣士を演じる。次々と襲いかかってくる現実達を、一心不乱になぎ払い、その日、生き残ることに全力を賭ける。

そして、一日を乗り切った報酬は、心地よい気怠さとささやかな達成感である。そのまま勝利の美酒に酔いしれたいところだが、その日はまっすぐ帰路に着いた。

仕事帰りに、電車を降りると、辺りはむわっとした熱気に包まれてたが、それを打ち消すように夜風がなびいていた。ちょうど良い塩梅だ。遠くからは、月曜から飲んでいる若者の騒ぎ声が聞こえた。

その空気が示唆するのは、夏の到来だ。小学校の夏休み前に感じた、新しい予感と可能性の兆しである。35歳を目前とした僕に、新しい可能性などもはや残されていないが、子供の時の記憶が風に乗って呼び起こされた。

夜空には、朧げな月がぼんやりと浮かんでいた。その光は弱々しくて、今にも消えてしまいそうだ。でも毎日、同じ時間、同じ場所に必ず出現するという変わらない事実に、安堵した。

だが、果たして、変わらないとは良いことなのだろうか?とりとめもなく、そう思った。僕にとって、変わらないという事実はネガティブな文脈で用いられることが多い。それは停滞を意味し、打破するべき壁のような存在だ。毎日、育児や仕事に振り回されて、疲れ果てて、そのまま、眠りに落ちる。そんな循環する毎日が続くと、ふとした瞬間、焦燥感を覚え、変えたいという衝動に駆られる。

だから、変わらないという事実に、普段と真逆のニュアンスが垣間見れたことに、いささか困惑した。白黒はっきりさせたい性格なので、言葉の本質を掴みきれないことに素通りできなかった。しかし、最近読んだ禅の本の一節が、このパラドックスを解決してくれた。

不思善、不思悪

ふしぜん ふしあくと読む。つまり善と悪の概念は、人間が勝手に与えた考え方で、そんなものは実在しないというものの見方だ。

本件に当てはめると、変わらないことに良し悪しのラベル付をするのでなく、ありのままを受け入れろということだろう。本で読んだ時はイメージを掴み切れなかったものの、その時、時間差で腑に落ちた気がした。

今までなら、強引に白黒つけようとしてた思考回路のレールポイントががこんと変わった瞬間である。

その時の夜風は、35年目の新たな可能性を含んでいる。そんな予感がした。