よきにはからえ

おもしろきこともなき世をおもしろく、住みなすものは心なりけり

令和の運動会の光と闇

先日、長男の運動会があった。

息子からすれば、人生はじめての運動会。そして、僕にとっては25年ぶりの運動会。競技者としては汚点しか残さなかった自分が、今や観客として楽しむために、門の敷居を跨いでいるのは、妙に感慨深い。

そして、ただ純粋に息子の観戦をするだけでなく、25年の歳月を経て現代の運動会がどう進化しているのかにも興味があった。僕にとって運動会とは、運動ができる”勝者”と運動ができない”敗者”を決める、いわばプリミティブ・ジャングルである。

そこに敢えて意味を見出すとすれば、競争社会がなんたるかを身をもって知る学びの場であったのかもしれない。当時はそれでよかったかもしれないが、今やESGや多様性が叫ばれる時代である。明らかに優劣をつける価値観は敬遠される。そんな時代の変遷の中、プリミティブ・ジャングルがどう社会に適応したか、見てみたかった。

そんな背景ありきで、運動会に参加したのだが、抱いた感想は2つある。そこにラベル付けをするならば、運動会の"光"と"闇"である。

まずは"光"の部分について。運動会が半日にコンパクト化された。競技数が少なくなり、競技中の無駄な時間が徹底的に省かれた。軍隊のような入場行進はなくなり、かけっこも工場ラインのように機械的に行われていた。

これくらい軽く流す感じでやってくれるのは、アンチ運動会派にとっては大変ありがたい。これまで運動会は親や職員の準備作業も含めて、大変負荷が大きかったはずだ。そこにメスを入れてくれたのは、大きな進歩である。

そして、”闇”の部分について。リレーが根強く残っていた。競技科目が半分以上削られたにも関わらずだ。むしろ、競技数が減った中において、リレーの濃度が増したようにも見える。まことに遺憾である。

なぜリレーだけが悪しき風習のように消滅しないのか。恐らく、観客受けが良いからだろう。勝っても負けても、一生懸命走ってる我が子の姿を見ると、応援したくなるのが親心だ。その心理を巧妙に計算した学校側の采配であろう。

だがそこには競技者の視点が抜けている。足が遅い子供の気持ちを考えてほしい。彼らは負けることが分かっているにも関わらず、強制的にフィールドに引き摺り出される。そして、円状に取り囲む観客たちの前で生き恥をかかされる。その構図は、強制的に出場させられているコロッセオの奴隷となんら変わりない。

だがそんな弱者の感情の機微には一切目を向けられない。Winner takes allの価値観のもと、一部の足の速いやつだけが脚光を浴びる。敗者は敗者でしかなく、そこに付加価値は付かない。

小6のリレーで見た熱狂的な光景は、25年前となにも変わっておらず、すべてを物語っていた。きっとこの先もリレーがなくなることはないのだろうと思った。まるで、繰り返される戦争の歴史のようだ。

ちなみに友達は、子供にかけっこの習い事をさせているそうだ。理由を聞いてみると、足を速くるすることが、小学校で自尊心を保つのに効果的であるからとのこと。

たしかにそうだと思う。だがそのシステム自体には間違いなく欠陥がある。早くリレー自体が消滅するか、もしくは立候補制になって欲しいものだ。