よきにはからえ

おもしろきこともなき世をおもしろく、住みなすものは心なりけり

「共感」と「尊重」の等価交換

昨晩、妻と盛大にケンカした。

無音のゴングは深夜23時に鳴り響き、それから4時間ほど泥試合が行われた。お陰様で今日は大変寝不足で、常に瞼の上に重圧を感じながら、仕事をする羽目になった。最低5時間寝ないと脳が機能しないことが骨身に染みた一日であった。

喧嘩すること自体は、今に始まった話ではない。子供が生まれたあたりから、定期的にドンパチやっている。もめる原因はいつも同じで、家事のクオリティや役割分担といった極めて些末で実務的なきっかけである。

だがそれが宗教戦争のような価値観のぶつかり合いにまで発展するのは、お互いに譲り合う心の余裕がないからである。2人とも仕事、家事、育児をそれぞれのやり方で一生懸命頑張っている。人間誰しも、積み上げてきた努力を否定されることが一番つらい。だから、口論になった際にどちらも引くことはできない。身を引くことは自分が(少なくとも)相手より頑張っていないと認めてしまうことになるからだ。

両者の必死さは、その言葉遣いにも如実に表れてくる。「でも」「それは違う」「さっきから言ってるけど」等の、否定的枕詞が無条件でついてくるのだ。つまり、鼻から相手の話を受け入れる気がないのだ。理屈が通っているかはもはや関係ない。ルール無用の殴りあいである。端から見ると、洗練された大人の議論にみえるが、その実態は、子供の意地の張り合いと何ら変わりないのだ。

だが不毛な争いと分かってても、止めることができない。だから、僕は妻と接しているときの自分がとても嫌いである。「ありがとう」「ごめん」と形だけでも寄り添えばいいのだろうが、プライドが邪魔して素直にできない。相手は自分を映す鏡だというが、その通りだと思う。そこに映っているのは、器が小さくて現実に疲れ切った中肉中背のおっさんなのだ。

話を戻すと、昨晩の仁義なき戦いはヒートアップし続け、危うく、離婚という一線を越えそうになった。そうなると、お互いに失うものも大きい。2人は一旦冷静になり、休戦協定を結ぶことになった。その内容は「共感」と「尊重」の等価交換だ。ぼくは妻の気持ちに「共感」し、妻は僕の努力を「尊重」するという契約内容である。

これがシンプルでかつハードな条件だ。少なくとも僕はそう思っている。妻曰く、共感とは、相手の気持ちをそのまま受け入れるのことらしい。そこに、自分の意見や価値観を介入させてはいけない。余計なフィルターを通さずに、ピュアな状態のまま自分の中にシンクロさせる。臓器移植のようなものだろうか。男子校出身の理系男にとっては、微分方程式よりも理解し難い概念であった。

思考が追いつかずフリーズした様子を見て、妻は逃げ道を用意してくれた。形だけでも、共感の意を表現してくれたらいいらしい。その寄り添う行為に意味があるとのこと。

なるほど、確かにそれならできるかもしれない。取り繕うことは性分に合わないが、今や選択の余地はない。できなければ離婚。背水の陣で、共感パフォーマンスを演じるしかないのだ。

結婚生活を維持することの難しさと奥深さを再認識した35年目の秋口でした。