よきにはからえ

おもしろきこともなき世をおもしろく、住みなすものは心なりけり

スランプに陥った気がする

これまで記事を何本か書いてみたが、ここらで一旦、立ち止まって自分の状況について振り返ってみたい。

急に反省会をしようと思い立った理由は、率直に、何を書けばいいか行き詰まったからだ。スランプに陥った時は、原点に帰る。自分を見つめ直すことで爆発的に成長することは、ドラゴンボールハンターハンターで証明されている。

というのも、最近は執筆のリズムを掴むことが難しくなった。無心で書いていた当初と違い、今では書き出し段階で、この題材ではうまくいかないだろうという雑念が執筆の邪魔をしてくる。少し経験を積んだせいだろうか。そのせいで、題材を何度も変える羽目になり、一向に筆がすすまない。

だが一方で、当初の予想と反して、良い作品ができ上がるケースもある。話のネタは陳腐であっても、表現力や構成力でカバーされていて、全体として、(自己)満足度の高い記事となっているのだ。

そう、結局のところ、いい記事とは、話の素材ではなく、それをどう調理するかで決まってくると思う。「弘法、筆を選ばず」とやらだ。そういう意味で、題材を慎重に吟味している時間は、きっと無駄なのであろう。それよりも、どのように話を展開するか、表現戦略を考える方がよっぽど生産的だ。

では表現力を飛躍させるには、どうしたらいいだろう。そこがまさに今置かれてる状況のボトルネックだ。

世の中には、表現することが得意な人と苦手な人がいる。ぼくは残念ながら後者だ。物事の捉え方が表現に向いてないのだ。

思うに、表現するとは、装飾することだ。

とにかく外面をいい感じに見せること。古今東西のレトリックを総動員して、言葉をキレイでシャープに着飾る。話を等身大以上に膨らませて、大袈裟に見せる。中身はどうでもいい。最悪空っぽでもよい。

だから、内容がぺらっぺらで話がうまい人なんて、いくらでもいる。最たる例は芸人だろう。彼らは、無機質な情報を有機的に組み合わせて、面白おかしいストーリーに仕立て上げるプロだ。そこに、内容の深さや質感は必要はない。ただ純粋に面白ければよい。それを可能にしてるのは、巧みな表現力である。

逆に、僕がそうなのだが、物事の中身を重視する考え方は表現するのに向いてないと思う。この手の人は、本質的であるかどうかに主眼を置く。最短で効率的な方法を考える。だから、表現は率直であるが、一方で、情緒が欠けている。仕事する上では、好ましいスタイルだが、表現するという文脈においては、些か不利な考え方だ。

とは言いつつも、脳内に刷り込まれてしまった既存の考え方を今更、簡単に覆すことはできない。それはもう僕の個性の一部として、深く身体に定着している。

だから、急に表現力が向上するなんてことはきっとないだろう。コツコツと泥臭いアウトプットを積み重ねてるうちに、気が付かないうちに、身に付いている。

人間の欲望と同じで、望みすぎない方が、うまくいく。そんなもんだろう。