よきにはからえ

おもしろきこともなき世をおもしろく、住みなすものは心なりけり

小説を書こうとしたが断念した

ちょっと前に小説(書く方)を無料トライアル的にやってみた。1ヶ月程、実験的に書いてみて、もし将来性がありそうなら、趣味として本格活動化できればなどと淡い期待を抱いていた。今考えると、浅はかな皮算用であったと思う。

小説を描きたいと思い立った理由は、漠然と、小説家の視座に立ってみたいと思ったからだ。執筆すること自体に対するプリミティブな欲求とは少し違う。小説を書く過程で必要な思考回路や物事の捉え方が魅力的に見えたからだ。それは物事の裏側にあるストーリーに思考を巡らせる思考回路である。

僕らが見えている世界は、結果や結末の集合であり、いわば氷山の一角でしかない。近所の荒廃した神社、路上で見窄らしく座ってるおじさん、なぜか地元にひとつ残ってる電話ボックス・・・。一見、取るに足らないような物事にも、その裏には、結果に至るまでの物語があり、感情の動きがあり。そして解釈の深さがある。その隠れた部分に焦点を当て、自分なりの仮説を立てる思考回路は、自分の見える世界を広げてくれると思った。なんなら、金を稼ぐためのビジネス知識や論理的思考力よりも、はるかに優れた能力だとすら思う。

そんなふわっとした動機の下、kindle Unlimiedの小説指南書を斜め読みした後、早速、筆を走らせてみた。が、机に手が貼りついたように、一向に筆が走らない。

指南書によれば、プロット(粗筋みたいなもの)やテーマ(小説を通じて伝えたいメッセージ)を固めることから始めるそうなのだが、この時点で全くアイデアが湧いてこない。経験値を蓄積することが目的なので、無論、クオリティには目を瞑って、最小のハードルで臨んでいる、にも関わらず、やはり筆は止まったままだ。自分の脳がまるで、枯渇した湖のように思えた。

考えてるようで、なにも考えてない状態のまま、刻々と時間だけが過ぎていき、さすがにこのままでまずいと思った。子育て仕事で時間が年貢のように理不尽に奪われている最中、これ以上、悪戯に時間を投資することはできない。苦悩の末、やむなく撤退という判断を下した。

今回のボトルネックは、アイデアが浮かばない35歳の硬直した思考回路だ。だがそれとは別に、これまでの人生経験が、小説を書く上で大事なファクターではないかと思う。物語を創造するとはいいつつも、ゼロから飛躍的な発想が生まれるわけではない。作者の経験や考え方が発想のベースとなるのはないだろうか。そういう意味で、小説を書けるフィールドは自分の人生経験が及ぶ範囲であり、僕のように凡庸でリスク最小限の生き方を歩んできた者には、どう頑張っても書けないのではないのだろうかと思ってしまう。

だがプロの小説家は自分の経験とは、あまりにも無関係のテーマをモチーフにして、深みのある小説を書いてくる。インタビューなどで情報不足を補っているとはいえ、それにしてはリアリティのある物語を再現できていると思う。彼らは自分の体験の枠組みを超えた世界観で、物語を生み出しているのだ。それを可能にする思考回路は興味深いしし、ある意味、そこが才能的な要素とも思えた。

残念ながら、今回、置かれている環境や自身の能力面においても、時期尚早という判断を下したが、小説を書くことを諦めきったわけではなく、その思いを”塩漬け”にしただけだ。最近思うことだが、人生は数多の偶然性の積み重ねであり、思わぬタイミングで新しいインスピレーションと出会うことが多い。そのうちのどれかが小説を書く歯車になるかもしれない。結果を求めすぎず、道中を楽しめばよい。

ジン風に言えば「道草を楽しめ 大いにな」ってやつだ。