よきにはからえ

おもしろきこともなき世をおもしろく、住みなすものは心なりけり

30代の儀式

本日は30代の人が定期的にかつ半強制的に行われるある儀式を終えてきた。

儀式というと、西洋ヨーロッパ貴族の伝統的なイベントというイメージが彷彿されるが、現代の日本でも近いことは行われている。

そして、一言で儀式といっても、色んな種類のものがある。王位継承するための儀式であったり、ダークドレアムを呼び出すための儀式であったり、目的によって様々である。

僕が今回受けてきた儀式は胃カメラと巷では呼ばれ、主に癌の早期発見のために行われる。胃カメラを儀式と呼んでいるのは、両者の本質が同じではないかと思っているからだ。それは①苦痛を伴い、②やること自体に意味があるという2点である。

特に②に関しては、儀式を執行する前に頭に叩き込んでいたほうが良い。でないと、「めちゃくちゃ不快だけど、特に何も検出されなかった」という事実に納得できないからだ。鼻にカメラを詰められたのだから、それに見合う対価を要求したくなる心理は当然である。だが所詮ただの検査に過ぎないため、なにも検出されないのが当たり前である。検出されれば、それは胃カメラの便益を享受できる一方で、健康的にはアウトである。この二律背反のジレンマに苛まれないためにも、胃カメラが形式的な儀式に過ぎないことは認識しておく必要がある。

上記のイメトレを終えた上で、検査の当日を迎えた。

儀式はあくまで健康診断の一項目でしかない。僕は受付を終えると真っ先に順番を確認した。無論、心の準備を整えるためである。儀式は一番最後であった。あふれ出るラスボス感。相手にとって不足なし。

まずは手前にいる雑魚検査どもから片づけることにした。身体測定・視力・聴力・心音図・・・楽勝である。だが、問題は血液検査で起こった。

血を抜いている最中のことだ、最後の一本に差し掛かったところで、急に意識が遠のいて、気が付いたら、周りの看護師さんたちが上から「大丈夫ですか!?」と声を掛けていた。どうやら僕は貧血で失神したらしい。意識が戻った時の感覚が、とても気持ち悪かったのを覚えている。前後の記憶が非連続的で一瞬だけ死んだような違和感。寝起きの感覚とは明らかに異なる。

そのまま、ベッドに運ばれて、しばらく安静にすることになった。大のおっさんが看護婦さんに両脇を抱えながら、見せしめのように廊下を歩かされたのが、とても恥ずかしかった。思いもよらぬ二次災害である。

身も心もズタボロにされてベッドで意気消沈していると、さっきの看護婦がやってきた。次からは採血は横になってやったほうがよいとアドバイスした上で、「そういえば、この後、胃カメラあるけど、どうする?」と言われた。

危うく、また失神するところであった。完全にその存在を忘れていた。看護婦は僕の絶望を汲み取ってくれたのか、「脈もまだ低いし、後日に先延ばしする」という逃げ道をを提示してくれた。だが、それは臭いものに蓋をしているだけにすぎない。ぼくはドラクエで儀式から逃げるバカ王子の事例を散々見てきた。彼らが儀式から逃げ切れたケースはひとつもない。儀式を避けて先に進むことは許されないのだ。ぼくは「いえ、やります」と曇り一つない目で答えた。

そして儀式は当初の予定通り行われた。麻酔やらなんやら液を鼻にぶち込まれた後に、ついにチューブを差し込んでいった。麻酔しているから痛みは少ないものの、鼻の奥にずぶずぶと異物を入れられる不快感までは拭い去れない。僕は少しでも意識を逸らすために、「寝るときに羊の数を数えるのは、なぜ羊になるのか」を必死で考えていた。医師が「これで最後です、あと3分で終わります」と言ったときは、人生で初めて「あと3分」が示唆する長さに絶望した。

無事検査が終わり、「特段の異常は検出されませんでした」と医師が伝えた。またしても胃カメラの便益を享受できなかったことに若干の違和感を覚えながらも、その気持ちは心の鞘に納めた。

失神するわ、胃カメラ飲まされるわで、散々の健康診断であったが、解放されてから食べてから食べた天一は涙が出るくらいうまかった。