よきにはからえ

おもしろきこともなき世をおもしろく、住みなすものは心なりけり

執筆の偶然性を大事にしたい

前回に引き続き、ブログに関する記事である。昨年から1年間ブログをやってきて、それなりに執筆に関する知見も溜まってきた。これまで、ひたすら書くことを目標に突き進んできたが、今年は視座を少しだけ上げてみたい。

具体的には、ブログ活動における偶然性を尊重したい。執筆中に出会う一期一会の表現や、執筆当初湧き上がった感情の鮮度、そういう刹那的なものに身を委ねられたらと思う。漠然と脳裏に浮かぶイメージを、手品のようにぱっと、しかも精度高く言語化することができたら、僕にとってそれは幸せの一形態だと思う。

僕は執筆の際には、石橋を叩くように、コツコツと進めていく。満足のいく表現が見つからなかったら、その場で沈思黙考するし、投稿までに何度も見直し書き直しが行われる。当初はいいと思っていた表現も、時間が経つと、なんか違うなと思い始め、書き直されることも往々にしてある。

だけど、そうやって、丹念に時間をかけて書き上げられた記事が、必ずしも良くなるとは限らない。むしろ、時間をかけるほど、凡庸なものに収束する傾向多いように思える。推敲の結果、全体としては、よく纏まっていて、読みやすくはなるものの、個性は失われているのではないかと感じる。

僕はその理由が、時の経過に伴い、記事の核となる熱量が失われたためだと考える。改めて思うのは、思考や感情というのは信用ならない。その時、確信をもってYesと言い切っても、翌日にはやっぱNoで、簡単に手の平を返してくるやつらだ。なので、彼らの気が変わらぬうちに執筆を済ましてしまうのが、賢明だと思うわけだ。

とは言え、実行するのは中々難しい。僕の場合、執筆の前半までは滞りなくタイピングが進むものの、半分くらいで山場を迎える。そこで、言葉の連鎖反応は失われ、思考が淀み始める。残りは苦し紛れのパッチワークで継ぎ足しながら、なんとか投稿まで押し込むのが毎回のパターンである。

そこに足りないのはなんだろう。語彙力や言語化能力などのテクニカルな部分が未熟なのか、それとも題目への熱量が足りないのか。そもそも、両者を完全に二分できるとも思えないので、結局のところ、ひたすら書き続けるしかない、これに尽きると思う。

ただ心に留めておきたいのは、ひとつひとつの文章に100%の表現力を求めるのでなく、多少曖昧で意味が通らない時があっても、それもブログの妙味として残す選択肢もあるということだ。