よきにはからえ

おもしろきこともなき世をおもしろく、住みなすものは心なりけり

価値観の破壊と再生

滅多にないが、自分の価値観に革命が起こるときがある。

それは、ある考え方に出会うことで、それまで自分を支えてきた支柱的存在の概念が一瞬にしてぶち壊される。外見は何も変わっておらず涼しい顔をしてるのだが、内部では、天地がひっくり返って、価値観の破壊と再生が行われてる。インナー革命である。自分の年表があれば、歴史的事実として刻まれるであろう。

先日、一冊の本を読んだ時に、その瞬間は訪れた。その本は、テニスでスランプに陥った時に、コーチから勧められたもので、一言で言えば、ネガティブな雑念やノイズを、いかにして頭から払拭させるかを説いたものだ。自分がそうなのたが、悪い意味で、物事を深く考えすぎてしまう人に是非参考にしてもらいたい。

その本が言うところ、まず自分の中に、2人の人格がいることをイメージする。理性的に自分をコントロールしたがるセルフ1と、自然体としてのセルフ2だ。

セルフ1は、エゴのようなもので、事あるごとに、しゃしゃり出てきては、目的や理想を押し付けてくる。理不尽な上司からの命令のようなもので、それは自身に不必要にプレッシャーを与えて、体に緊張を生みだす。

逆にセルフ2は、自我のない自然体としての自分だ。無意識下で働くバックグラウンドプロセスと言えばいいだろうか。スポーツの自然な体の動きを司る部分でもあると言われてる。セルフ2が完全に自分を支配した時、いわゆるゾーン状態に入ると言われている。

どちらも自分の人格なのだが、セルフ1の方が自己主張が強い。セルフ1はセルフ2を裏方へと追いやり、脳の主導権を握ろうとする。

脳がセルフ1にジャックされると、「しないといけない」思考に支配される。この思考に陥ると、視野は狭窄し、思った通りに考えられなくなる。この思考回路がネガティブな影響を与えることが、頭ではわかってても、抜け出すことが出来ない。そこが僕の悩みポイントであった。

そこで、本書ではセルフ2が持つ自然学習能力に焦点を当てている。自然学習能力とは、動物の生存本能としての学習機能である。つまり、無意識下でも、自分の思考回路はちゃんとアップデートされている。だから理性の力、すなわちセルフ1に頼る必要はないというのだ。

この考え方は僕の中の学習のパラダイムをぶち壊した。

僕は学習能力をコントロールするのは理性だとずっと信じてた。体験を言語化することに意味があると思ってた。だから、効率的に自分を進化させるためには、セルフ1の存在が不可欠だと思ってた。

たが、そうではない。学習プロセスは水面下で行われている。恐らく、言語ではない何かを介して。それは、曖昧で実態を掴めないから、学習してる実感が沸かない。でもちゃんと学習しているのだ。理性の力で学習を最大化させようと、躍起になっていた僕は、この考え方を知って、救われたような気持ちになった。自然とセルフ1がすーっと身を引いたような気がした。

そして、自然学習の考え方はもうひとつ、自分の根幹にある再現性という概念を破壊した。

勉強でもスポーツでも、初めてできた体験や知識を、いつでも引き出せるようにすることが大事だと思ってた。つまり再現することだ。

でも現実は再現できないことが多かった。よく考えたら、当たり前だ。複雑な要素が絡み合った過去の事象を再現するなんて不可能だ。それでも、なぜか再現することに固執してた。つまり、現実を見ないで、過去に執着してたのだ。

でも、自然学習の考え方は、再現性の呪縛から解き放ってくれる。学習スピードは自然と決まっている。決して理性をもってコントロールできるものではない。それは、自分の中に引き際の一線を設けてくれる。過去を再現することへの諦めは、同時に、現実を直視しようという貴重な一歩を、ごく自然な形で導いてくれる。再現性という価値観が僕の中でがらがらと瓦解した瞬間、奥にいるセルフ2と目が合ったような気がした。

要は、この本が言ってるのは、自然体の自分を信じることの大切である。たとえ、それが言語化できない、形のないものであっても、だ。そうすることで、頭の中の邪念は発色され、意識的に自然体でいられる。それが結果として、自分の100%の実力を発揮することに繋がるのだ。

これまで宗教とか、不確かで曖昧なものを信じる人の気持ちが全くわからなかったが、少しだけわかったような気がした。精神の革命である。