よきにはからえ

おもしろきこともなき世をおもしろく、住みなすものは心なりけり

村上春樹とクラピカ

先日、村上春樹の”雑文集”を読んだ。これは小説ではなく、作者がつらつらと日々のとりとめもない思いを綴った雑記をパッケージ化したものだ。小説とは異なるものの、数々の洗練された作品を輩出している作家が普段なにを見て、なにを考えているのかその一端に触れられるのは興味深いと思い、購入を決意した。

まず最初に断っておくと、僕は数ある小説の中で、彼の作品が圧倒的に好きである。彼の小説はただの物語に留まらない。その虚構の枠組みを超えて、読者の心の組成を変えようと働きかけてくる。それは言い換えると、まるで僕が小説の世界を疑似体験することによって、思考回路がアップデートされるような感覚に近い。それくらい、彼の紡ぐ言葉には、魔法のような力があり、彼が作り出す小説はまるで領域展開のようである。

だがそれ故に、読者をシャブ漬けにする中毒性の危険を孕んでいるとも思っている。彼の小説は示唆に富んでいて、小説を通じて、自分の内面と深く向き合うことになる。だが、そこで現実世界と分断されてしまう。これは大げさに言っているのでなく、本当に分断されるのだ。目の前の現実、たとえば仕事や家庭のことを置き去りにして、内面に広がる哲学的な世界を当てもなく思索してしまう。その間は、ある種、廃人の精神状態に近い。だから、僕は村上春樹の小説を読む際には、深入りしないように、必ず一定のクール期間を設けている。

そして今回も、半年ぶりくらいに彼の文章を読んで、久しぶりに内面の世界に引きずり込まれたわけだ。前回と違うところと言えば、そのことが客観的に把握できている点である。

本の序盤に一番気に入った考え方が紹介されていた。簡単に要約すると、自己とはなにか?という哲学的な問いに対する答えとして、好きなことについて語ることが推奨されていた。その心は、好きなことについて語る言葉に、自分の本質が自然と投影されているということだ。

何事においてもそうだと思うが、抽象的概念は具体化されないと意味をなさない。具体ありきの抽象である。抽象的なことばかり話す人(特に数学が得意な理系に多いと思うが)の話は、ふわふわして結局何が言いたいかよくわからない。でも、それは思考のクセみたいなもので中々治らないものだ(自分も含めて)。そんな人に向けたメッセージと(勝手に)受け取った。

ある種、今書いているこの記事が、まさに上記の考え方を実践しているのだろう。僕は好きな村上春樹について自分の言葉で語ることで自分の人間性を表現しているのだ。まるでクラピカが自分の念を鎖で具現化するように、形のない自分の思いを、形ある何かで言い表す。この有象無象の個別の集まりが自己であり、それを無理やり一言に圧縮することに何の意味があるのだろうか。そう考えると、就活でお馴染みの抽象的な質問も答え自体に意味があるのでなく、その表現方法を見られているのであろう。