よきにはからえ

おもしろきこともなき世をおもしろく、住みなすものは心なりけり

復活の呪文

自分で言うのもなんだが、久々の更新である。実際の空白期間は1ヶ月くらいであり、全然大したことない。それでも、ザオリクされた感覚に陥っているのは、週1で執筆するルーティンをこれまで1年間継続してきたからだろう。一時的であれ、連続的に続いてきた習慣が、断ち切れたのは、ある種の"死"を意味する。

まず暫く時間が空いた理由は、シンプルにリアルが忙しかったからである。それは書く時間がなかったという意味もあるし、もうひとつ、ブログのモチベが下がっていたという意味合いもある。どうやら、外の世界で会話できる環境にあると、自己表現欲求はそこで完結してしまうらしい。表現欲求を満たすという文脈において、会話とブログは互換性があることに気づいた。

当初ブログを始めたきっかけは自分の発信と発散の場を作るためであった。当時はリモートワーク続きで、他人と会話する機会がなく、それはもう精神的暗黒時代といっても過言ではない。出口のない欲求不満の中で、想いの捌け口として見出したのがブログである。表現することに飢えていた僕は、雀の涙程度の父親の自由時間を惜しみなくブログに注ぐことができた。

だが最近になって、労働環境が劇的に変わった。出社も増え、コミュニケーションも活発化してきた。そうなると、ブログを書く原動力は徐々に失われた。これまで、ブログを書いていた時間は、動画や読書などのリラックス時間に置き換えられた。

そんな風前の灯状態の中、また記事を書いてるのは、そこに新たな目的を見出したからだ。というのも、ネタを考えるプロセス自体が、思考を深化させる型を与えてくれてると思った。

日常生活において、自分自身の感情や想いに目を向ける機会はない、絶望的にない。絶え間なく、降ってくるタスクを処理する日々で、オペレーションに寄与しない感情や情緒やらに目を向けるのは、それが必要だとわかっていても、不可能と言えよう。

そこで、半強制的に自問自答を引き起こすのが、ブログのネタ探しである。"最近どう?"という内面への問いかけが呼水となり、会社や父親としての立場は関係なく、ひとりの人間としての自分と向き合うことが可能となる。この等身大の自分との禅問答的キャッチボールは、忙殺の日々を送ってる大人にとって、貴重なのだと思う。

過去の日記を見返してみても、クオリティはさておき、その時々の些細な悩みから、大きな悩みまで、ちゃんと言語化されている。きっと、漫然と過ごしていただけでは、これらの感情の機微に気付くことはなく、過去は有象無象の集合体として処理されていたことだろう。

なので、たとえリアルが充実していても、ブログは継続した方が良いと改めて思った。復活の呪文としては長いなと思ったが、よく考えたら、オリジナルのやつも相当長かった。