よきにはからえ

おもしろきこともなき世をおもしろく、住みなすものは心なりけり

散らかったおもちゃ

僕はマイラップトップを持ってないので、ブログを書く時は、いつもリビングのソファーで胡座を掻きながら書いている。

そして、視線の先には、子供達のおもちゃ箱が置いてあり、考え事をしてて、前を見てる時は必ず目に入る。

だが、おもちゃ達が完璧に所定の配置に収まってることはまずなくて、必ず誰かしら、片付け損ねられたやつが、ぽつぽつとフィールドに残っている。

今も見渡すと、まずパンダのぬいぐるみが死体のようにごろっと転がっており、その隣では、おままごとセットのハンバーグとポテトがちょうど机から投げ出された無惨な形で、床に散らばっている。そして極め付けは、部屋のど真ん中には、めるちゃん(人形)のベビーカーがどんっと威圧的に置いてある。

子供達が起きている時に、この状態を見ると、あぁまだ片付けてないのかと鬱々たる気持ちになるのだが、子供達が寝た後の静まり返った部屋で見ると、それらはなんだか趣深く見えてくる。

おもちゃそのものは、まるで時が止まったように静止しているだけだが、それを見るだけで、ついさっきまで、子供達がそこで楽しそうに遊んでいたという余韻を脳内に想起させてくれる。まるで、そこに子供達の魂が宿っているような、深い意味を持ったもののように、見えてくるのだ。

なんか、それが芸術作品を見ているような感覚に近い。

いや、全然普段は美術館なんて行かないし、芸術について語る口を持たない。

が、あえて、自分の言葉で言語化するとしたら、芸術性を感じるものは、そこに何かしらのストーリー性があるものだと勝手に思ってる。

一見、無意味に見えるものであっても、そこに作者の意図が見え隠れして、見る人に想像する幅を持たせてくれる奥行きのある作品がアートではないだろうか。いや、全然知らんけどね。

そして、今目の前で、哀愁漂わせながら佇んでいる、おもちゃ達にも同じような何かを感じた。

明日になれば、なんで片付けないんだ!と怒られて、途方にくれている、彼らの未来まで見えてきて、切なくも少しほっこりして、そこまで含めてアートな気持ちになった。