よきにはからえ

おもしろきこともなき世をおもしろく、住みなすものは心なりけり

村上春樹の色眼鏡

前回、表現力を身に付けたいという、切実な思いを綴った記事を書いた。その延長線上となるが、人が持つ世界観について考えてみたい。

現実世界はひとつしかないが、その捉え方は千差万別である。例えば、同じ仕事をしてて、幸福に感じる人がいれば、不幸に感じる人もいる。雨が降ったという事実に対し、嫌がる人がいれば、喜ぶ人もいる。

1人1人が自分自身の経験に裏打ちされた色眼鏡をつけており、そのレンズを通して見える景色は十何十色である。それを個性とか世界観と呼ぶのだろう。

そういう意味で、誰しも独自の世界観を持ってはいる。だが、それを表現できるかどうかは別の話で、これが大変難しい。

それは、形のないもやっとした概念を、形あるものに具現化する作業である。文章や絵画、音楽など、手段は何でもよい。その技術を確立するのは、いずれの場合も高い技術力が必要だろう。それは、紛れもなく、立派な職人技だ。

そして、僕が思う、自分の世界観を見事に表現できている人物は、村上春樹である。

"村上ワールド"という造語がある通り、そこには読者を物語に引き込む、中毒性のようなものを帯びている。通勤の電車で読んでると、降りた後、頭がふわふわして、数分間、現実世界との乖離を感じるくらいだ。

そして、なぜここまで彼の小説は自分を夢中にさせるのかを考察してみた。"村上ワールド"という他人の言葉を借りるのでなく、自分のレンズで見えたものを、自分の言葉で表現することに意味があると思うわけだ。

村上春樹の作る物語は、一言で言えば、非常にまわりくどい。登場人物の感情を、周りの風景や音、過去の記憶などを使って、可能な限り、婉曲的に描写している。喜怒哀楽がはっきりしてた感情表現はあえて使われない。

だが一見、難解に思えるその表現が、理解を妨げいるわけではなく、むしろ、深く腹落ちさせることに貢献している。それは、人間の複雑で混沌とした感情の機微を、その複雑性を残したまま、ある意味、精緻に表現しているからだと思う。

これは、自己啓発本でよく見られる、直球でシンプルな表現とは真逆の手法である。後者は、可能な限り、無駄を削ぎ落としているため、すっと頭に入ってくる。そして、わかった気にはなる。だが、そこに深みはない。無機質で情に訴えてくるものがない。

人はよく本質的なことを、一言で纏めたがるが、時と場合によっては、簡素化できない概念もある。それを強引に纏めようとすると、一部のニュアンスが抜け落ちてしまうのだろう。手の隙間から、砂がこぼれ落ちるように。

一方で、村上春樹は、あえて遠回しな表現を多用することで、物語のリアリティを保ったまま、世界観を表現することに成功している。そして、生々しい描写の節々に、本質的な何かを感じ取ることができる。それは、人生訓のようなもので、物語の文脈の中で語られることで、肌感覚で感じとることができる。僕はその形のない核のようなものの一端に触れた瞬間に、ささやかな満足感を感じるのだ。

村上春樹の色眼鏡というのがあるとするならば、物事を直球で捉えるのでなく、他の概念で置き換えながら、その実体を捉えようとする手法なのだろうと勝手に思っている。

是非、その色眼鏡を借りて、世界を見渡してみたいものだ。