よきにはからえ

おもしろきこともなき世をおもしろく、住みなすものは心なりけり

30代が使う「将来」という言葉

この年になると、何気なく使う"将来のための自己投資"という言葉に対して、将来っていつだろうと、ふと思ってしまう。

20代の将来という言葉のイメージはいわば青写真だ。不確かで漠然とした可能性が全方位に広がっている。自由に、そして軽快に将来像を思い描くことが自然とできてた。

だけど30代になってからの、将来という言葉の重みは明らかに違う。現実の延長線上に、はっきりとした解像度で、どっしりとした質感を持って存在している。関数で例えると、将来を決める要素となる、たくさんの変数のうち、もう大部分が決まってきた状態だ。結婚、子供、家、仕事。人生を決定づける主要な変数はもう固まっている。

なので、「将来のための投資」という言葉を、当時の文脈で使うことは、もはやできない。今からできるのは、"老後のための投資"くらいだろう。

だが、このような状況下においても、「将来に向けて」という考え方から脱却できない自分がいる。というのも、将来のために何か行動してないと、心穏やかではいられない。そういう、気質なのだ。

それはなぜかというと、僕の中の幸福センサーが安心感と紐づいているからだ。

現実で楽しすぎていると、このままでいいのかと、将来に対する漠然とした不安に襲われる。仕事が暇すぎる時や、ずっとゲームしてる時とかだ。

そしてこの不安を掻き消すために、将来目線で役に立つでことに着手する。主なアクションは読書だ。これも読書が純粋に好きというよりは、何かを得られたという安心感が動機となっていることが多い。

人はそれぞれ異なる感情のセンサーを持っている。喜怒哀楽を基軸とした、様々なセンサーが脳内に備わっているイメージだ。それは、外部からの情報に対して、琴線のように呼応する。

自分の場合は、安心感センサーの感度がとてつもなく敏感なのだ。

試験で合格した時、プレゼンを切り抜けられた時、テニスの試合に勝った時、真っ先に沸き起こる感情は、不安から解放されたことによる圧倒的な安堵感である。

人によっては、同じ事実に対しても、異なるセンサーが反応するはずだ。勝利への純粋な高揚感を感じる人、競争に勝ったという優越感を感じる人、目標を達成したという達成感を感じる人、このように感情センサーの反応の仕方は千差万別ということだ。

話を戻すと、僕は安心感を得るために、将来のための自己投資をやっている。たとえ、将来が存在していなくても、かまわない。そんなものはただの口実に過ぎない。

ふと思ったのだが、この構造は、損をすることをわかってて、ギャンブルに金をつぎ込む人と本質は変わらないのかもしれない。

つまり、大事なのは、勝ったかどうかという結果ではない。夢を見ることに対価を払っているという事実だ。