よきにはからえ

おもしろきこともなき世をおもしろく、住みなすものは心なりけり

変えられない朝一の運命

タイムトラベルを題材とした作品で、よくある展開として、過去に戻って、悪い未来の根っこを潰したはずなのに、結局、同じ顛末を迎えてしまうパターンだ。

ひとつの芽を摘んでも、また別のところで思いもよらない因果が生じる。それらを全部潰さないと、大局的な流れは変わらない。きっと、1つのシナリオの因果関係は思っているよりも根深いということだろう。シンプルに見える原因は、氷山の一角であり、水面下には無数の因果が根を張っている。それは、複雑に絡み合っており、諸悪の根源の所在を曖昧にする。そして、何をやっても、運命を変えられないと悟った時には、途方もない無力感に襲われるのだ。

なぜ、こんな話をしたかと言うと、僕が毎朝このパターンを追体験しているからだ。

その悪夢のようなシナリオとは、息子(6歳)が登校前にブチ切れることである。その理由は、多種多様で、枚挙にいとまがない。例を上げると

片付けをしない→親に指摘される→ブチ切れ

妹と喧嘩する→親に指摘される→ブチ切れ

準備が遅い→親に指摘される→ブチ切れ

という、陳腐でとりとめのないものだ。

うちの息子はどうやら反骨精神が著しく発達しているらしい。そして、ブチギレ方も、一時期流行った"キレやすい若者"という言葉が象徴するそれに近く、ふざけんなぁぁ、ばかやろおおぉぉぉ、うおぉぉぉぉとか言葉にならない言葉を燃やしながら、家の中で暴れ回る。その光景たるや、地獄絵図である。爽やかな朝日と共に訪れる地獄だ。

このスイッチが入ると、人の言葉で説得することはもはや不可能であり、電池が切れるのを待つか、力づくで強行突破するしかない。といっても、学校に連れてかないといけないため、必然的に後者の選択肢を取るしかなくなる。

僕はこのシナリオを回避するために、これまで、あらゆる手段を講じてきた。問題の所在が、片付けにあるなら、朝おもちゃで遊ばせないようにした。妹との喧嘩が原因なら、2人を近づけないようにした。準備が遅いなら、前日に準備を終わらせるようにした。原因が睡眠時間にあるなら…etc

だが、そんな僕の努力を嘲笑うかのように、息子はどこからともなく、新たな火種を持ってくる。そして、朝一で大きい花火をぶち上げるのだ。

その度に「またこのパターンか…」と心の中で呟きながら、既視感ある光景を、ぼーっと眺めるのだ。そこに、もはや怒りの感情は存在しない。きっと諦観を纏った仏のような目をしているだろう。

アンガーマネジメントという言葉があるように、怒りをコントロールすることは、大人でも非常に難しい。そもそも、感情とは、無意識のうちに心から湧き溢れでてくるものであり、その発生を止めることは根本的に不可能だ。せいぜい、コントロールできることと言えば、別のことに意識を向けて、湧き溢れる怒りの感情をどこかにバイパスさせることくらいだろうか。

だが6歳の子供には、そんなテクニカルな技術を持ち合わせていない。ただ、感情の流れに身を任せることしかできないのだ。

だから、大人は理性で怒りを押さえつけようとするべきではない。ただ感情の源泉が空になることを祈ることしかできないのだ。雨乞いとは逆で、枯渇の祈りである。誰かクロコダイルを召喚して欲しい。そういう意味で、子供の怒りの感情との向き合い方は、ほんとうに難しい。正解がなくて、根深い問題だ。

だから明日も僕は、ブチ切れシナリオ回避の道を、ただひたすら探し続けるだろう。すべての道がローマに繋がっているわけではないことを、そこに抜け道があることを信じるしかない。