よきにはからえ

おもしろきこともなき世をおもしろく、住みなすものは心なりけり

自己肯定感を巡る闘い

最近思う。人間社会の構図は自己肯定感を巡る闘いだと。人々は自己肯定感を満たすために、毎日死に物狂いで働いている。金や名誉のためではない。それらは自己肯定感を満たすツールにしかならない。逆に、別に物質欲が満たされなくても、自己肯定感を満たすものが別であれば、勝ち組である。

自己肯定感は人間社会が生み出した産物であり副産物でもある。所詮それは人間の感情であるため、絶対的ではない。個人によって感じ方は異なるし、不確かで曖昧なものだ。だがその感情に一喜一憂しているのが人間の心の機微である。

急に遠い目をして、悟りの境地で語り始めたのは、30代を超えた当たりから、自己肯定感を維持するハードルが高くなってきたと感じる今日この頃であるからだ。

今思い返せば、10代20代は恵まれていた。友達とつるんで、あとは勉強してるだけで社会でうまくやっていると感じることができた。当時はまだ社会からは何も求められていないからだ。将来に備えて、知識と経験を吸収さえしていればよかった。きっと、若さという免罪符に守られていたのであろう。

その効力が切れてきたと感じ始めたのは30代に入ってからだ。仕事では10年プレイヤーとして相応の立ち振舞いとパフォーマンスを求められた。家庭では良き父親として家庭に貢献することを求められた。これまで寛大であった社会が、急に手のひら返して、落とし前をつけろと突きつけてきた。まるで借金地獄にいるようである。仕事と家庭を回すだけの日々に自分の自己肯定感が徐々に消耗していることに気づいた。そこで、ひとつの真理に到達した。自己肯定感は与えられるものでなく、自分の意思をもって満たすものだと。

こうして今、自己肯定感を探す旅に出ている。別にさすらいの旅に出るわけではない。というか答えは自分の中にあると思っている。見つけ方はシンプルだ。外界のできごとに対して、自分の琴線がどのように反応するか、それを調べればよい。大きくプラスに振れるものがあれば、それが自分の心を満たしてくれるものである。そういうものごとを日常の中で探していけばよい。レーダーでドラゴンボールを探すのと同じ要領だ。

30代はある意味自分の内面と向き合う時期であると思う。それまで青天井であった世界が、急に現実味を帯びてくる。そこで、世界と自分の理想の間で折り合いをつけることを求められる。つまりは取捨選択だ。できることとできないことを峻別し、できることに注力し、できないことは潔く諦める。その分別がわかっていれば、些細な失敗で自己肯定感を消耗する事態を避けることができると思う。