よきにはからえ

おもしろきこともなき世をおもしろく、住みなすものは心なりけり

遊び心の保護

大人になると、自然と遊び心が失われてく。

自分では気づかないくらいのスピードで、南極の氷が溶けるようにじわりじわりと、でも確実にすり減っていってるのだ。

ただこれはもう仕方ない。社会人になって、組織の歯車としての生活がスタートした時点で、こうなることは、ある意味必然だ。

仕事に求められるのは、論理性と効率性である。組織で働く以上、主張に客観性を纏わなければ上司や部下を納得させることはできないし、立ち振る舞いに効率的を纏わなければ、期限内に作業を終わらせることはできない。組織で求められてるのは、一個人としての感情ではなく、与えられた役割を全うできる能力である。このような環境下に身を置いてると、思考回路も組織に求められるそれに、自然と順応する。

一方で、遊び心とは無駄を愛する心だ。日常生活に潜む非生産的でしょーもない出来事を味わい深いと感じる、一種の美学である。言うまでもなく、仕事とは相容れない価値観だ。

そして、資本主義社会においては、お金を稼ぐことに直結する能力が絶対視される。だから、仕事で身につく効率性や論理性に対して、それを完全無欠の成長だと感じる。本当はその代償として、情緒的な側面が失われているのだが、そこには目は向けられない。無一文な価値観は自然淘汰されるのだ。

自分自身、つい最近まで、遊び心が「失われてる」ことにすら気づかなかった。

価値観が変わったきっかけは、年齢的なものと転職による環境の変化だ。

これまで働き詰めだった生活から、一転して、時間的なゆとりを持てるようになると、不思議と視界の解像度が上がってくる。今まで生産性の色眼鏡によって、視界から捨象されてきた有象無象のものたちにも焦点が向けられるようになった。

遊び心自体は、子供の頃にはみんな持っていたはずだ。うちの子供など、四六時中、遊ぶことしか考えておらず、純度100%の遊び心の持ち主といっても過言ではない。

そういう意味では、大人になって芽生えた遊び心は、一度失ったものを取り戻しただけようにも思える。

だけど、本質的に異なるのは、大人の遊び心は、五感を研ぎ澄まさないと見えないということだ。自然に享受していた子供の頃のそれとは異なり、一種の希少価値が乗っている。

そして、無駄を楽しめる心のゆとりは、きっと人生を豊かにする。それはプライベート面でなく、人間関係や仕事ですらにも、波及的にプラスの影響を与えるはずだと思ってる。

だから、遊び心は大切に保護しないといけない。忙しい生活が訪れれば、きっとまた仕事モードになって、遊び心は消滅するからだ。

そうならないように、遊び心のスペースを予め確保しておく必要がある。そしてビニールハウス的なものでガチガチに保護して、社会の荒波から守ってあげよう。