よきにはからえ

おもしろきこともなき世をおもしろく、住みなすものは心なりけり

年を取ると常識が変わってくる

「年を取ると常識が変わってくるからねぇ~」とリリーフランキーがラジオで何気なく言っていたセリフが耳に残っている。

最近、ラジオを聴くようになった。中でも一番ハマっているのが、リリーフランキーのスナックラジオである。軽快なテンポで、他愛もない雑談を繰り広げるだけの番組である(しかも、下ネタが多い)。でもくだらない話を通じて垣間見れる知性がそこにはあって、全く飽きることなく聞いていられる。

話を戻すと、年を取って常識が変わると言われて、思い当たる節はとても多い。仕事一筋からワークライフバランスを重視するようになり、夜更かしせず朝ちゃんと起きるようになり、週一で飲み会がなくても平静でいられるようになった。より健康で健全な方向へ進化しているはずなのに、僕はそこにある種の虚しさを感じざるを得ない。

その虚しさの正体は、日常から楽しさが消えた喪失感である。毎日やるべきことに追われた生活によって、脳は機械的に洗練され、毎日の雑事を手戻りなく効率的に終わわせるプログラムに作り変えられる。そこで、無駄な言動は知らず内に排除され、頭の中に残るのは「should be」という2フレーズのみである。wantという概念もなければ、coolもfunnyもexcitingもない。すべて時間の波によって、遠い過去に洗い流されてしまった。

一方で、楽しさに取って代わる正の感情として、生まれてきたのが幸福感である。幸福感は楽しさのように刺激を伴うものでない。じわじわと身に染みるものだ。幸福感のトリガーは特定のイベントではなく、日常のサイクルに組み込まれている。例えば、おいしいご飯を食べるとき・暖かいお風呂に入るとき・ベットに入るとき等である。

20代までは日常の営みをここまで過大評価したことはなかった。恐らく、旅行や飲み会などのわかりやすいイベントが感情をジャックしていたからだ。若さゆえの好奇心もあるだろう。だが一通りの人生経験を積み、しかも自由も奪われてしまった今、プラスの感情が行き着いたのが、”日々の細やかな幸せ”である。リリーフランキーは、年を取って季節をより深く感じるようになったと話していたが、恐らく、同じ理屈だろうなと思った。

年を取ると常識が変わるというのは、この世に永続的な概念がないことを示唆している。祇園精舎の鐘の音と同じだ。これまで絶対正しい!絶対おかしい!と思っていたものは、人生経験を積むことによって、丸みを帯びていくし、より中立的なポジションに収束する。一方で、日常の機微なる変化に対しては、より鋭敏に感覚が研ぎ澄まされていくのであろう。