よきにはからえ

おもしろきこともなき世をおもしろく、住みなすものは心なりけり

インド出張に行ってきました。

久しぶりに海外出張に行ってきた。まず台湾に1泊2日で現地視察を行い、そのまま別案件でインドに飛び4日間、現地担当者と膝を詰めて話してくるという弾丸スケジュールであった。準備期間含めた直近2週間は、師走の定義を超えた忙しさに追われていたが、今朝羽田に到着し、ようやく落ち着くことができた。

羽田からの帰路で車窓から見えるのどかな風景に、懐かしさをこみ上げつつも、そこにある種の新鮮さも感じとれた。これは前回インドネシア駐在時にも同じ感情を抱いたのだが、海外の異文化にどっぷり浸かった後に、日本に戻ってくると、そこにいる自分はどこかアップデートされてる感覚に陥るのだ。

周知の認識であると思うが、インド人は個性が強く、コミュニケーションもやや一方的な傾向にある。それは言い換えると、相手の反応を気にせず、自分が何をアウトプットしているかに重きをおいているとも言える。なので、日本人のように「変なこと言ってしまった」とか「周りにどう思われているだろう」という概念は彼らの辞書には存在しない、恐らく。それ故に、相手の発言も過剰に受け取らないし、聞き流す程度のものである。

そんなインド人と接していると、多少なりとも自分もその影響を受けてくる。相手が発言の良し悪しを気にしないとわかると、こっちも気が楽になるものだ。自分の理解度が低いことや、場違いなコメントと思われることを躊躇することなく、言いたいことをぶつけられる。この心構えは、日本人同士のコミュニケーションでは中々身につかないものだ。

逆にインド人と比較して、日本人は発言の枝葉をあれこれ斟酌して、拡大解釈する傾向がある。それはそれで奥ゆかしい時もあるのだが、相手の反応を過度に気にして、コミュニケーションがスムーズに進まないことも往々にしてある。それはある種、自分で自分に課してしまう制約のようなものであり、自分を含め、その縛りに悩まされている人は一定数いるのではないのだろうか。

そういう意味で、インドで開眼した唯我独尊(?)の境地は、日本に戻ってからも維持していきたいと思うわけだが、哀しいかな、日本の生活に戻ると一瞬にして忘れ去られてしまうだろう。これは過去の駐在経験からも自分の中では証明されている。故郷で長年培われた思考回路を数年の海外経験では変えることはできないということだ。だから少なくとも、いつもと違う自分がそこにいた証明を残しておきたい。そういう思いで、この日記を書いているといっても過言ではない。

さらには、インドでの経験を形に残しておきたくて、ガネーシャの置物(2000円)までも柄にもなく買ってしまった。



自分を変えるためにインドへ行くと言う人をたまに聞くが、あながち間違っていないアプローチであると思った。

年を取ると常識が変わってくる

「年を取ると常識が変わってくるからねぇ~」とリリーフランキーがラジオで何気なく言っていたセリフが耳に残っている。

最近、ラジオを聴くようになった。中でも一番ハマっているのが、リリーフランキーのスナックラジオである。軽快なテンポで、他愛もない雑談を繰り広げるだけの番組である(しかも、下ネタが多い)。でもくだらない話を通じて垣間見れる知性がそこにはあって、全く飽きることなく聞いていられる。

話を戻すと、年を取って常識が変わると言われて、思い当たる節はとても多い。仕事一筋からワークライフバランスを重視するようになり、夜更かしせず朝ちゃんと起きるようになり、週一で飲み会がなくても平静でいられるようになった。より健康で健全な方向へ進化しているはずなのに、僕はそこにある種の虚しさを感じざるを得ない。

その虚しさの正体は、日常から楽しさが消えた喪失感である。毎日やるべきことに追われた生活によって、脳は機械的に洗練され、毎日の雑事を手戻りなく効率的に終わわせるプログラムに作り変えられる。そこで、無駄な言動は知らず内に排除され、頭の中に残るのは「should be」という2フレーズのみである。wantという概念もなければ、coolもfunnyもexcitingもない。すべて時間の波によって、遠い過去に洗い流されてしまった。

一方で、楽しさに取って代わる正の感情として、生まれてきたのが幸福感である。幸福感は楽しさのように刺激を伴うものでない。じわじわと身に染みるものだ。幸福感のトリガーは特定のイベントではなく、日常のサイクルに組み込まれている。例えば、おいしいご飯を食べるとき・暖かいお風呂に入るとき・ベットに入るとき等である。

20代までは日常の営みをここまで過大評価したことはなかった。恐らく、旅行や飲み会などのわかりやすいイベントが感情をジャックしていたからだ。若さゆえの好奇心もあるだろう。だが一通りの人生経験を積み、しかも自由も奪われてしまった今、プラスの感情が行き着いたのが、”日々の細やかな幸せ”である。リリーフランキーは、年を取って季節をより深く感じるようになったと話していたが、恐らく、同じ理屈だろうなと思った。

年を取ると常識が変わるというのは、この世に永続的な概念がないことを示唆している。祇園精舎の鐘の音と同じだ。これまで絶対正しい!絶対おかしい!と思っていたものは、人生経験を積むことによって、丸みを帯びていくし、より中立的なポジションに収束する。一方で、日常の機微なる変化に対しては、より鋭敏に感覚が研ぎ澄まされていくのであろう。

村上春樹とクラピカ

先日、村上春樹の”雑文集”を読んだ。これは小説ではなく、作者がつらつらと日々のとりとめもない思いを綴った雑記をパッケージ化したものだ。小説とは異なるものの、数々の洗練された作品を輩出している作家が普段なにを見て、なにを考えているのかその一端に触れられるのは興味深いと思い、購入を決意した。

まず最初に断っておくと、僕は数ある小説の中で、彼の作品が圧倒的に好きである。彼の小説はただの物語に留まらない。その虚構の枠組みを超えて、読者の心の組成を変えようと働きかけてくる。それは言い換えると、まるで僕が小説の世界を疑似体験することによって、思考回路がアップデートされるような感覚に近い。それくらい、彼の紡ぐ言葉には、魔法のような力があり、彼が作り出す小説はまるで領域展開のようである。

だがそれ故に、読者をシャブ漬けにする中毒性の危険を孕んでいるとも思っている。彼の小説は示唆に富んでいて、小説を通じて、自分の内面と深く向き合うことになる。だが、そこで現実世界と分断されてしまう。これは大げさに言っているのでなく、本当に分断されるのだ。目の前の現実、たとえば仕事や家庭のことを置き去りにして、内面に広がる哲学的な世界を当てもなく思索してしまう。その間は、ある種、廃人の精神状態に近い。だから、僕は村上春樹の小説を読む際には、深入りしないように、必ず一定のクール期間を設けている。

そして今回も、半年ぶりくらいに彼の文章を読んで、久しぶりに内面の世界に引きずり込まれたわけだ。前回と違うところと言えば、そのことが客観的に把握できている点である。

本の序盤に一番気に入った考え方が紹介されていた。簡単に要約すると、自己とはなにか?という哲学的な問いに対する答えとして、好きなことについて語ることが推奨されていた。その心は、好きなことについて語る言葉に、自分の本質が自然と投影されているということだ。

何事においてもそうだと思うが、抽象的概念は具体化されないと意味をなさない。具体ありきの抽象である。抽象的なことばかり話す人(特に数学が得意な理系に多いと思うが)の話は、ふわふわして結局何が言いたいかよくわからない。でも、それは思考のクセみたいなもので中々治らないものだ(自分も含めて)。そんな人に向けたメッセージと(勝手に)受け取った。

ある種、今書いているこの記事が、まさに上記の考え方を実践しているのだろう。僕は好きな村上春樹について自分の言葉で語ることで自分の人間性を表現しているのだ。まるでクラピカが自分の念を鎖で具現化するように、形のない自分の思いを、形ある何かで言い表す。この有象無象の個別の集まりが自己であり、それを無理やり一言に圧縮することに何の意味があるのだろうか。そう考えると、就活でお馴染みの抽象的な質問も答え自体に意味があるのでなく、その表現方法を見られているのであろう。

ソフト vs ハード

本日、仕事でキャリア座談会という社内イベントがあった。先行き不透明な時代の中、大企業でシャブ漬けになることを不安視する若者に向けて、先輩社員が座談会形式で自分たちのキャリアパスについて語る会だ。

そこで、業務で身につくスキルをハードとソフトに分けて説明していたのが印象的であったため、この場を借りてちょっと紹介したい。まずそれぞれの定義なのだが、ハードスキルは資格や専門知識に裏付けられる形式知である一方、ソフトスキルはコミュニケーション力や調整力など、個人の経験に帰属する暗黙知である。またゲームに例えると、プレイする上で絶対必要なのがハードである一方、そのクオリティを左右するのはソフトとなる。

そして、この図式は仕事でもそのまま当てはまると思っている。仕事を進める上で、土台となる知識は必須ではあるものの、成果のクオリティを左右するのはソフト面だ。つまり、ハードスキルをベースとしつつも、コミュニケーションや社内調整を駆使して上司や顧客の要求を正確かつタイムリーに満たすことが大事なのである。逆にハードスキルだけが独り歩きすると、ただの自己満足にしかなり得ない。

しかも往々にして、ハードスキルを得意とする人はその武器の使い方も知らぬまま、闇雲に知識の深化に走りがちなのである。かく言う自分がその傾向にあるからだ。理系男の悲しき性といえばいいだろうか。とにかく全体感を掴むのが苦手で、「木を見て森を見ず」に陥りがちだ。

でもソフトスキルだけを伸ばせばいいのか?と言えば、そうシンプルな話でもない。ソフトスキルはハードスキルと組み合わさることで真価を発揮する。言葉は悪いが、ウィルスのようなものである。口先だけでやり過ごす人も一定数いるが、核となるハードスキルがないと薄っぺらい感じになる。僕の出向先は商社系なのだか、専門知識がないことに憂いている若手中堅は一定数いる。

そんなわけで、結局のところ、ハードスキルもソフトスキルもバランスよく持っていないといけない。なんだ、結局いいとこどりかよと思うかもしれないが、世の中そんなもんだ。バランスよく立ち振る舞える人が安定的に成果を出せるのだ。

ただ言いたかったことは、自分がこれから身に着けようとしているのはハードなのかソフトなのかは、意識的に峻別しておいた方が、人生戦略を立てやすいのではないかと思うわけだ。例えば、35歳の自分がこれから新しいハードスキルを習得するよりも、これまで蓄積された人生経験を活かすためのソフトスキルを磨く方が賢明だと思う次第だ。

自己肯定感を巡る闘い

最近思う。人間社会の構図は自己肯定感を巡る闘いだと。人々は自己肯定感を満たすために、毎日死に物狂いで働いている。金や名誉のためではない。それらは自己肯定感を満たすツールにしかならない。逆に、別に物質欲が満たされなくても、自己肯定感を満たすものが別であれば、勝ち組である。

自己肯定感は人間社会が生み出した産物であり副産物でもある。所詮それは人間の感情であるため、絶対的ではない。個人によって感じ方は異なるし、不確かで曖昧なものだ。だがその感情に一喜一憂しているのが人間の心の機微である。

急に遠い目をして、悟りの境地で語り始めたのは、30代を超えた当たりから、自己肯定感を維持するハードルが高くなってきたと感じる今日この頃であるからだ。

今思い返せば、10代20代は恵まれていた。友達とつるんで、あとは勉強してるだけで社会でうまくやっていると感じることができた。当時はまだ社会からは何も求められていないからだ。将来に備えて、知識と経験を吸収さえしていればよかった。きっと、若さという免罪符に守られていたのであろう。

その効力が切れてきたと感じ始めたのは30代に入ってからだ。仕事では10年プレイヤーとして相応の立ち振舞いとパフォーマンスを求められた。家庭では良き父親として家庭に貢献することを求められた。これまで寛大であった社会が、急に手のひら返して、落とし前をつけろと突きつけてきた。まるで借金地獄にいるようである。仕事と家庭を回すだけの日々に自分の自己肯定感が徐々に消耗していることに気づいた。そこで、ひとつの真理に到達した。自己肯定感は与えられるものでなく、自分の意思をもって満たすものだと。

こうして今、自己肯定感を探す旅に出ている。別にさすらいの旅に出るわけではない。というか答えは自分の中にあると思っている。見つけ方はシンプルだ。外界のできごとに対して、自分の琴線がどのように反応するか、それを調べればよい。大きくプラスに振れるものがあれば、それが自分の心を満たしてくれるものである。そういうものごとを日常の中で探していけばよい。レーダーでドラゴンボールを探すのと同じ要領だ。

30代はある意味自分の内面と向き合う時期であると思う。それまで青天井であった世界が、急に現実味を帯びてくる。そこで、世界と自分の理想の間で折り合いをつけることを求められる。つまりは取捨選択だ。できることとできないことを峻別し、できることに注力し、できないことは潔く諦める。その分別がわかっていれば、些細な失敗で自己肯定感を消耗する事態を避けることができると思う。

「共感」と「尊重」の等価交換

昨晩、妻と盛大にケンカした。

無音のゴングは深夜23時に鳴り響き、それから4時間ほど泥試合が行われた。お陰様で今日は大変寝不足で、常に瞼の上に重圧を感じながら、仕事をする羽目になった。最低5時間寝ないと脳が機能しないことが骨身に染みた一日であった。

喧嘩すること自体は、今に始まった話ではない。子供が生まれたあたりから、定期的にドンパチやっている。もめる原因はいつも同じで、家事のクオリティや役割分担といった極めて些末で実務的なきっかけである。

だがそれが宗教戦争のような価値観のぶつかり合いにまで発展するのは、お互いに譲り合う心の余裕がないからである。2人とも仕事、家事、育児をそれぞれのやり方で一生懸命頑張っている。人間誰しも、積み上げてきた努力を否定されることが一番つらい。だから、口論になった際にどちらも引くことはできない。身を引くことは自分が(少なくとも)相手より頑張っていないと認めてしまうことになるからだ。

両者の必死さは、その言葉遣いにも如実に表れてくる。「でも」「それは違う」「さっきから言ってるけど」等の、否定的枕詞が無条件でついてくるのだ。つまり、鼻から相手の話を受け入れる気がないのだ。理屈が通っているかはもはや関係ない。ルール無用の殴りあいである。端から見ると、洗練された大人の議論にみえるが、その実態は、子供の意地の張り合いと何ら変わりないのだ。

だが不毛な争いと分かってても、止めることができない。だから、僕は妻と接しているときの自分がとても嫌いである。「ありがとう」「ごめん」と形だけでも寄り添えばいいのだろうが、プライドが邪魔して素直にできない。相手は自分を映す鏡だというが、その通りだと思う。そこに映っているのは、器が小さくて現実に疲れ切った中肉中背のおっさんなのだ。

話を戻すと、昨晩の仁義なき戦いはヒートアップし続け、危うく、離婚という一線を越えそうになった。そうなると、お互いに失うものも大きい。2人は一旦冷静になり、休戦協定を結ぶことになった。その内容は「共感」と「尊重」の等価交換だ。ぼくは妻の気持ちに「共感」し、妻は僕の努力を「尊重」するという契約内容である。

これがシンプルでかつハードな条件だ。少なくとも僕はそう思っている。妻曰く、共感とは、相手の気持ちをそのまま受け入れるのことらしい。そこに、自分の意見や価値観を介入させてはいけない。余計なフィルターを通さずに、ピュアな状態のまま自分の中にシンクロさせる。臓器移植のようなものだろうか。男子校出身の理系男にとっては、微分方程式よりも理解し難い概念であった。

思考が追いつかずフリーズした様子を見て、妻は逃げ道を用意してくれた。形だけでも、共感の意を表現してくれたらいいらしい。その寄り添う行為に意味があるとのこと。

なるほど、確かにそれならできるかもしれない。取り繕うことは性分に合わないが、今や選択の余地はない。できなければ離婚。背水の陣で、共感パフォーマンスを演じるしかないのだ。

結婚生活を維持することの難しさと奥深さを再認識した35年目の秋口でした。

令和の運動会の光と闇

先日、長男の運動会があった。

息子からすれば、人生はじめての運動会。そして、僕にとっては25年ぶりの運動会。競技者としては汚点しか残さなかった自分が、今や観客として楽しむために、門の敷居を跨いでいるのは、妙に感慨深い。

そして、ただ純粋に息子の観戦をするだけでなく、25年の歳月を経て現代の運動会がどう進化しているのかにも興味があった。僕にとって運動会とは、運動ができる”勝者”と運動ができない”敗者”を決める、いわばプリミティブ・ジャングルである。

そこに敢えて意味を見出すとすれば、競争社会がなんたるかを身をもって知る学びの場であったのかもしれない。当時はそれでよかったかもしれないが、今やESGや多様性が叫ばれる時代である。明らかに優劣をつける価値観は敬遠される。そんな時代の変遷の中、プリミティブ・ジャングルがどう社会に適応したか、見てみたかった。

そんな背景ありきで、運動会に参加したのだが、抱いた感想は2つある。そこにラベル付けをするならば、運動会の"光"と"闇"である。

まずは"光"の部分について。運動会が半日にコンパクト化された。競技数が少なくなり、競技中の無駄な時間が徹底的に省かれた。軍隊のような入場行進はなくなり、かけっこも工場ラインのように機械的に行われていた。

これくらい軽く流す感じでやってくれるのは、アンチ運動会派にとっては大変ありがたい。これまで運動会は親や職員の準備作業も含めて、大変負荷が大きかったはずだ。そこにメスを入れてくれたのは、大きな進歩である。

そして、”闇”の部分について。リレーが根強く残っていた。競技科目が半分以上削られたにも関わらずだ。むしろ、競技数が減った中において、リレーの濃度が増したようにも見える。まことに遺憾である。

なぜリレーだけが悪しき風習のように消滅しないのか。恐らく、観客受けが良いからだろう。勝っても負けても、一生懸命走ってる我が子の姿を見ると、応援したくなるのが親心だ。その心理を巧妙に計算した学校側の采配であろう。

だがそこには競技者の視点が抜けている。足が遅い子供の気持ちを考えてほしい。彼らは負けることが分かっているにも関わらず、強制的にフィールドに引き摺り出される。そして、円状に取り囲む観客たちの前で生き恥をかかされる。その構図は、強制的に出場させられているコロッセオの奴隷となんら変わりない。

だがそんな弱者の感情の機微には一切目を向けられない。Winner takes allの価値観のもと、一部の足の速いやつだけが脚光を浴びる。敗者は敗者でしかなく、そこに付加価値は付かない。

小6のリレーで見た熱狂的な光景は、25年前となにも変わっておらず、すべてを物語っていた。きっとこの先もリレーがなくなることはないのだろうと思った。まるで、繰り返される戦争の歴史のようだ。

ちなみに友達は、子供にかけっこの習い事をさせているそうだ。理由を聞いてみると、足を速くるすることが、小学校で自尊心を保つのに効果的であるからとのこと。

たしかにそうだと思う。だがそのシステム自体には間違いなく欠陥がある。早くリレー自体が消滅するか、もしくは立候補制になって欲しいものだ。