よきにはからえ

おもしろきこともなき世をおもしろく、住みなすものは心なりけり

安息を求めて電車に乗り込むようになった

最近、薄々と感じていることなのだが、電車に乗る機会を待ち侘びている自分がいる。

もはやその期待値は土日のそれを凌駕したと言っても過言ではない。かつて金曜夜を目の当たりにして感じた高揚感は、駅のホームで感じるようになった。

だが決して、早く会社に行きたいわけでもなければ、急性的に鉄道オタクが発症したわけでもない。その心を言葉で表すとすれば、父親の悲しき宿命とでも言えばいいだろうか。

1ヶ月前までは、土日の恩恵を通常通り享受できていた。特に金土夜の子供が寝静まった後は、大人のマジックアワーだ。平日は仕事と子育てに追われてるので、この時間が唯一の癒しの時間だと言ってもよい。1週間分の疲れとストレスをこの時間で、浄化することで、なんとか精神の均衡を保てていたのだ。

だが、子供が最近のサッカーを始めた。練習は土日の朝にある。土曜は朝9時、日曜は朝6時からだ。誤字でない、正真正銘、朝6時からである。その話を聞いて、嫌な予感がした。

それからというもの、僕の土日はガラリと変わった。早朝から晩まで、ぶっ通しで、子供の相手をすることになった。夜は翌日に備えて8時に就寝するという家庭ルールが追加されたため、大人のマジックアワーもあっけなく奪われた。子供の成長という大義名分のもとでは、大人の幸せは一寸の迷いもなく切捨てられる。日本の古き良き自己犠牲の精神を呪いたくなった。

そして、安息の地を求めて彷徨った僕の魂が、流れ着いたのが、朝の電車だ。ここでは50分間、何人たりとも邪魔をされずに読書に没頭できる。いわば聖域である。まさかエルサレムが朝の通勤電車にあるとは、かのキリストも露ほども思わなかっただろう。

車両内で周りを見渡しても、僕ほど嬉々とした目をしてる人はいない。みんな死んだ魚の目で携帯を見てるか、死んだように寝てるか大体どちらかだ。少なくとも、この面子の中では、僕が圧倒的な希望と気概を持って、乗り込んでると断言できる。なんなら、鉄道会社には電車賃に加えて場所代を払ってもいいとさえ思える。

だが、この状況は決して喜ばしいものではない。今の時代の価値観が作り上げた歪みの部分だ。世論は少子高齢化の影響を受け、子供を大事にしようとする流れの真っ只中である。現代版の「生類憐れみの令」だ。その潮流は決して悪いものではないのだが、ちゃんと皺寄せが親にきている。親は文句も言えず、黙って、子供に全てを捧げるしかない。この愚痴も表の世界では中々言いづらい。ブログだから、正直に書けるのだ。

今の子供を偏重する世間の動きは、逆に子供を作らない流れ生み出してるのではないかと思う次第である。